episode:1-4 【雨の日喫茶】
憎しみ。一色の端正な横顔は、表情を失せさせることでそれを表していた。
「……まぁ、頑張れよ」
「頑張ります。……盗まれる前に燃やしておくべき……いえ、描くべきではなかった。もっと言えば、見るべきではなかった」
少女の細い声が、途切れそうになりながらも続く。
「……あんな口車に乗せられて」
「口車?」
「……安い口車です。『自分がどれほど描けるのか、知りたくはないか?』とそそのかされました。当時の僕は、あまりにも強すぎる万能感に絶望していて、自分の底を見たいと思っていまして」
「自分の底?」
「底が見えない穴は恐ろしいので」
絵の中のサメは、酷く怯えているように見える。より強い捕食者から逃れられないことを知りつつ、恐怖に駆られてひたすら泳いでいるような……。
雷の音が遠くに聞こえた。
「……それで、底は見えたのか?」
「水溜りではしゃぐ子供だった。……この絵、プレゼントしたいですけど、また雨ですね。晴れの日に来てくれたらいいのに……」
「いや、晴れてる日に来ても入り口がないんだが」
「……んぅ、そういえば、諸事情あって入り口をカモフラージュしてましたね」
意味が分からずにいると、一色は青い絵の具の付いた指を動かす。
「絵を描いてるだけです。扉がただの壁に見えるように」
「ああ、だから絵の具が流れて雨の日にだけ見えるのか」
普通なら絶対に信じないような言葉ではあるが、今までに見た少女の技量を思うと否定する気にはなれない。
「なので、また晴れてる日に来てくださいね」
「あー、ならまた明日来る」
「んぅ……明日は周期的に怪盗さんが来る日なので……知り合いの知り合いに会ったら気まずくなるタイプならやめた方がいいかもです」
「ツッコミどころが多い」
ため息を吐き出して、龍の絵に目を向ける。
「……これ、描いていいのか?」
「描きたくなるんで、仕方ないです。描き終えたらペンキをかけたり、切ったり、燃やしたりして適当に処理します」
「もったいないな」
「……人に見せる方がもったいないことになるので」
立ち上がって食べ終えたゴミを袋に入れ直す。
「あっ、帰るんですか? ゴミは置いてていいですよ。雨の中持って帰るのも面倒でしょう」
「あー、悪いな」
一色に手渡してから、扉を開けて外に出る。来た時よりも強くなっている雨に顔をしかめてから、軽く振り返って一色を見る。
美人だな。と、雨の音に紛らわせるように小さく言う。
わざわざ会いに来たのは、彼女の絵に興味が湧いたのか、それとも容姿に釣られてか。
情けなさに再びため息を吐いた。
不思議そうに小首を傾げた一色は、ほんの少し微笑みながら控えめに手を振る。
「また明日」
「ああ、まぁ、来てもすぐに帰るだろうけどな」
◇◆◇◆◇◆◇
後日、本当に色を塗って見えなくしている扉があるのかを確かめようとしたが、少しばかり雨が降っているせいで確かめることが出来ない。
雨で絵を持ち帰れないのなら寄る必要もないけれど、一色が雨に気がついていなければずっと待っている可能性もある。
一応声ぐらいはかけておいた方がいいかと思い、軽くノックをしてから中に入る。雨の中、返事を待つ気にはなれない。
「一色、一応寄ったけど、また雨だから今日は持ち帰れない……。と、何してるんだ?」
昨日も見た水龍シュイロンの絵。それの前でバケツを構えて突っ立っている一色。
彼女はむっつりとした表情を浮かべながらこちらへと振り返った。
「あっ、アキトさん。……シュイロンの絵が描けたので、ちゃんと処理をしようと思って……」
「はあ、ペンキを掛けるのか?」
「はい。なので、少し待っていてください」
用があるわけでもないので一言「また明日に来る」と告げたいだけだが、それぐらいなら数秒のことだろうから待つか。
そう思って立っていたが、一向に一色が動く気配はない。
「一色?」
「あ、ちょっと、こっちには来ないでください。完成したシュイロンの絵を見られたら困るので」
「昨日も見たぞ。今も少しは見えているしな」
「芸術作品なんですから、ちゃんと完成したものを直視しなければ大丈夫です」
そんなものかと思いながら待つが、やはり一色は動かない。
「……一色?」
「わ、分かってます。 ちゃんとペンキをぶちまけてめちゃくちゃにしてやりますよ」
「あー、なら代わりにやってやろうか?」
「見られたらダメですし……」
「後ろに回って上からかければいいだろ」
一色は迷った様子を見せてから頷き、俺にペンキを渡す。
「ひ、一思いに、一思いにやってください」
「はいはい」
結構な高さがあるので、キャンバスの後ろにある椅子の上に乗って掛けるか。そう思って靴を脱いで椅子に片足を乗せようとしたとき、焦ったような一色の声が響く。
「あっ、その椅子は絵で本当はない──」
脚を乗せようとした椅子がするりと通り抜ける。いや、椅子をすり抜けたわけではなく、そもそもそこに椅子はないことに気がつく。
一色の言っていた『壁に見せかけた扉』を思い出しながら、よろけた身体を近くの机に手をついて支えようとして、それも透ける。
「……おい、一色」
シュイロンの絵を巻き込みながら盛大に転けた。
赤い絵の具を頭から被りながら、俺を支えようと下に潜り込んで下敷きになっている少女に非難の声をあげる。
「す、すみません……。お怪我は」
「むしろ潰れてるお前の方が大丈夫か」
「ぼ、僕は多分大丈夫です……」
立ち上がって一色の手を引き立ち上がらせる。当初の目的のシュイロンの絵にはペンキをかけれたものの、俺や一色にも盛大にかかっている。
もう既にペンキまみれになっているズボンの無事な部分でペンキを拭いてから、ポケットに入れていた財布とスマホを取り出してペンキの付いていない床に置く。
「いたた……すみません。誰も来ないと思ってたので、雰囲気作りで描いてたのを忘れてました」
頭から赤いペンキを被った一色は、顔を歪めながらシュイロンの絵を見る。
「まぁ、一応目的は果たせたので問題はないですね」
「問題あるだろ……」
「あっ、お風呂ならありますよ? シャワー浴びますか?」
「この格好だと電車にも乗れないから借りるが、先に入ってこいよ。流石に家主を後回しには出来ないしな」
「僕はあとでいいですよ?」
「こっちの気分の話だ」
「それなら先に入りますけど。絵とか見てていいですよ」
赤いペンキを垂らしながら一色は奥へと歩いていく。ペンキに塗れているシュイロンの絵を見る。大半が赤色で塗りつぶされていてほとんど見れたものではないが……それでも尚、美しい。
ほんの少しだけ、一色の言葉の意味が分かった気がする。
あまりにも美しいものは人を狂わせる。潮の匂いや味を感じながら、手についていたペンキでまだ消えていないところを塗りつぶしていく。こうしていた方が一色も喜ぶだろう。
暇つぶしがてらに他の絵を見ていく。美しい人物画、幻想的な生物、どこでもあるような景色、そして写実的な絵の中にある異質な何を描いているのか分からない抽象的な絵画。
天才である。と、思わざるを得ないほど、どれもが美しい。
美形でない人や、醜い生き物、そこらの景色、全てが写実的で、かつ美しいのだ。
あのアホそうな変人からは想像もつかないほどに、良い絵ばかりだ。
ポタリ、と、赤いペンキが床に落ちる。
「……とんでもないな」
改めて見れば、少女の異常さが際立って見える。むしろ今まで俺が名前を知らなかったことが不思議なほど、大成しておかしくない画家のように思えた。
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