episode:1-3 【雨の日喫茶】

「水元さ、前に『雨の日喫茶』って噂の話してたろ?」


 後輩の女子に声をかけると、彼女は不思議そうに首を傾げながら振り返る。

 眼鏡の奥にある眠たげな瞳が少しだけ揺れて、興味ありげに俺の方へと身体を向けた。


「それがどうかしたんですか? シグレさん」


 確か彼女は同期の女友達に『えー、今時お洒落な喫茶店の一つも知らないとかマジヤバくね? チョベリバー』と煽られ、その評価を覆す為に探していたはずだ。


 まぁその女友達が今時の女子かどうかはさておいて、水元という後輩も今時の女子らしくはない。


 洒落っ気のない長い黒髪と、飾り気のない黒縁の眼鏡。服装も小綺麗ではあるが流行りとは遠いものだ。浮世離れとまでは言わないが、茶髪やらコンタクトにしていない女子学生は珍しく、彼女が友人といるときはほんの少し浮いているようにも見える。


「この前その雨の日喫茶っぽいのに入ったんだよ」

「えっ、本当にあったんですか?」

「ないと思ってたのかよ。まぁ二回目行こうとしたら扉もなくなってたんだけどな」

「雨の日に行ったんですか?」

「初めはそうだけど、また行こうとしたときは晴れてたな」


 水元は不思議そうに頷く。


「噂って本当だったんですね。ダンディな店主でした?」

「いや、小さい子供」

「名前は雨の日太郎です?」

「なんだよその名前。昔話か」

「そう突っ込まれましても。私が噂を流したわけでもないですし……」

「んで、別に喫茶店ってわけじゃなかったな。喫茶店の箱をそのまま利用してるから見た目は喫茶店みたいになっていたけど、なんか子供が住んでたな」

「じゃあ、みんなを見返すのは難しいですね……」


 悔しそうに呟いて、ため息を吐いてから教科書に目を戻す。


「そういえば、最近獣人間が出るって噂もありますよ?」

「なんだそれ」

「私は詳しくはないですけど、シグレさんがそういうオカルト話が好きなら、友達紹介しますよ?」

「たまたま見つけただけで興味はない」


 話を終えて外に目を向けると、窓ガラスに水滴が付いていて太陽はまだ隠れていないものの黒い雲が増えていた。


「……雨降りそうだな」


 もう一度行ってみるか。雨が降っているから絵は持ち帰れそうにないが、約束しておいて放置というのも気が引ける。

 水元と別れ、コンビニでビニール傘と適当に飲み物と菓子を買う。


 それから『雨の日喫茶』へと向かうが、向かっている途中、またいけるのか不安になってくる。

 本当に雨の日だけに扉が出来るなんてことがあるとは思いにくい。


 さっさと確かめれば良いものの、滝のようになっている路地裏の前で立ち止まる。

 もしも扉がなければ……と、少し躊躇う。


 服に付いた赤い絵の具は一度の洗濯で綺麗に落ちていた。顔料には詳しくないが、そんな簡単に落ちるものなのか。

 ……まさか、白昼夢だったのか。などと考えてしまうほど、あっけなくあの場所にいた証拠はなくなった。


 これなら、多少雨で濡れても、適当な絵を貰っていればよかった。


 そんなことを考えながら、傘を落とさないように強く握り、雨のカーテンをくぐり抜ける。


 まるで喫茶店の扉。とても民家とは思えない扉がそこにあった……が、この前とほんのすこしだけ違う。 どことなく白っぽく、薄汚い。


 何の気なしにぺたりと扉に触れた手に粘着質な何かが付着する。白い絵の具。 それは雨に簡単に溶けるように流れていく。

 扉には一箇所だけ白が剥がれたガラスがあり、そこから中の様子がすこしだけ見えていた。


 扉を開けて中に入る。少女の姿はないが、空調の音が聞こえていて少し涼しい。 この前に来た時には気がつかなかったが、天井にある空調の前に布が貼られていて直接風が来ないようになっている。


 絵を描くとき、風が邪魔になるからだろうか。徹底していることに関心を抱きながら、元々カウンター席だったらしい場所に置かれている絵をに目を向けた。


 それを一言で表すのならば、龍だろう。蛇のような形をした東洋風の龍。 その絵には龍以外の物は何も書かれていないが、それが水龍であることや巨大な存在であることが伝わってくる。


 あるはずのない海の潮気が鼻腔に入り込む。

 月明かりを元に夜の海を覗き込むような、ただただ得体が知れない強大もすぎる恐怖感が、背中から首筋へと伝る。


 恐ろしいのに手が自然と伸びるような、色香に誘われるような恐怖。この感覚を人は畏敬と呼ぶのだろうか。


 夢の中にいるような、あるいは金縛りにでもあったかのような感覚は、ぱたぱたという足音で消える。


「あっ、アキトさん」

「あ、ああ……勝手に上がって悪いな」


 この前とほとんど変わらない、少しだけ絵の具のつき方だけ変わったパーカーを着た少女、一色は手にペンキのような青色の液体が入ったバケツを持ちながら俺の隣にくる。


「……ああ、背景を描くのか?」

「んぅ、そのつもりでしたけど、アキトさんがいるなら別の絵にしますよ」

「邪魔をしたか?」


 俺の問いに、一色は不思議と自嘲したような笑みを浮かべる。


「ただの見栄ですよ。……人に汚い絵を見せたくないってだけで」

「いや、俺は素人だけどあの絵がものすごいということぐらいは分かるが」

「……まぁ、価値はあるみたいですよ。描くたびに盗まれるので」


 不満げにそう言いながらバケツに蓋をしてから、別のキャンバスへと顔を向ける。


「僕は、朝焼けも美しいと思います。昼間の太陽も、夕焼けも。蝶も綺麗ですし、蛾も魅力的で、ハエやゴキブリやユスリカにだってそれぞれの美しいところがあると……そう思っています」


 キャンバスに向かう少女の横顔。絵と向き合う姿は可愛らしさよりも凛々しさや美しさを強く思わせる。

 ゆっくりと言葉を噛みしめるように、一色は言葉を続けた。


「地元の人の間では【水龍シュイロン】と呼ばれているそうです」

「地元? ああ、何かの伝承とかにある生物か」

「いえ、この龍のいる海の地元です」

「……大丈夫か?」


 俺の問いに気を悪くするようなこともなく、一色は嬉しそうに描きあげた絵を俺に見せる。


「何の虫だ?」

「カミキリムシだとは思いますけど、見たまま描いてるだけなので分からないです。あれ、虫は嫌いです?」

「まぁ、好きではない」


 コンビニのレジ袋から取り出した菓子や飲み物を一色に見せるように持ち上げ、首を傾げた一色に手渡す。


「何かいるか?」

「んぅ……ホットコーヒーあります?」

「買ってないな。コーヒー牛乳ならあるが」

「せっかくなのでいただきますね」


 一色はプリンとコーヒー牛乳を手に取り、コーヒー牛乳を床に置き、プリンを手に持って両手で振ってから蓋を開けて液状になったそれを一息で飲んでいく。

 その後にコーヒー牛乳も一気呑みして、手早く片付ける。


「美味しかったです。 ごちそうさま」


 絶対に嘘だろ。


「何か描いてほしいものとかありますか?」


 一色はそう俺に尋ねる。


「……この前も聞かれたな」

「考えてきてくれました?」

「いや……特にな」

「アニメとかのキャラクターでもいいですよ?」

「画家って、もっとこうこだわるものかと思っていたが……。じゃあ、サメの絵を頼む」

「ネコザメでいいですか?」

「ホホジロザメで」


 頷いた一色は手にべとりと絵の具を付けて、白いキャンバスに塗っていく。


「サメはいいですよね。僕も結構好きです。絵にこだわりがない、というわけでもないんですけど……」


 素手で絵を描いたり、一気飲みしかしなかったりと、変人に見えるが話し方はおかしくない。

 なんとなくアンバランスさを覚えながら、なかなか出てこない彼女の言葉を待った。


「あの絵は、誰にとっても良いものに見えるんです」


 龍の絵を一瞥しながら彼女は言う。


「まぁ、すごいよな」

「……価値観を狭めます」


 心底軽蔑しているかのような表情を、龍へと向ける。


「シュイロンはあまりに魅力的です。だから、蝶のみを美しいと言って蛾やハエを醜いと決める。猫や犬だけを可愛がりドブネズミやらを嫌うような、そんな感性の原因になります。個人がそう思うのは構いませんが、あの龍を愛せば誰もが自分自身の価値観を奪われてしまう」

「お前はなんか色々変わってるな。というか、ならなんでそんな絵を描いたんだ?」

「……奪われたんです。僕もあの龍を見て、目と心、価値観、感性……本当に、つまらない物を見てしまいました」


 サメの絵が描き終えられる。相変わらず素手で描いているとは思えないほど写実的で、本物と見紛うほどだ。


「……僕はもう、絵描きとして、終わっているんです。あの龍が、いつだって頭から離れない。……だから、取り返さないと」

「取り返す?」


 俺の言葉に反応した様子もなく一色は呟いた。


「怪盗アンチに、盗まれたんです。……唯一の、完成させてしまった水龍シュイロンの絵を。多くの人の価値観を奪う前に、取り返さないと」

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