episode:1-2 【雨の日喫茶】
一色と名乗った少女は愉快そうに口元を緩めて、幼げなかんばせを別のキャンバスに向ける。
「リクエストとかあれば描きますよ?」
「……いや、特にないが」
「もー、遠慮しちゃって」
何故俺はまだここにいるのか。そう考えるが、コーヒーは冷めるまで飲めたものじゃなく、一色が起きてから付けた空調の風が涼しく心地よく、外は強い雨が降っている。
一色もよく分からないが歓迎しているように見え、彼女が異様な変人であることを除けばここから出て行く理由もない。
犬やら猫の絵を描いている一色を見る。俺よりも頭が二つ分は小さい。
「……小学生か? 学校はどうした?」
「行ってないですよー。というか、十六歳です」
「そうは見えないが、なら高校は?」
「行ってないです。そもそも高校生って訳でもないですよ」
一色はカモノハシの絵を描き終えてからそれを無造作に放り、奥に行ってホットコーヒーを淹れる。
「……まぁ義務教育ってわけじゃないが」
普通は通っているものだろう。そう思うが、少女が普通ではないのは簡単に見て取れる。
だとしてもこんなところで、一人で何をしているのか疑問だ。
見たところ、喫茶店の内装をそのまま流用しているような部屋で、奥に休憩室とキッチンらしきものは見えるが……親らしき人物は住んでいなさそうだ。
「何をしているんだ?」
「コーヒーを飲んでいますけど……?」
「いや、そうじゃなくてな。……いや、俺が聞くようなことでもないか」
ただ雨宿りのために屋根を借りているだけだ。
そんな詮索をするのも無礼だろう。俺が頰をかいていると、一色はコーヒーカップを二つ持ってきて、ひとつを俺の前に置いた。
……増えた。
「僕がここで何をしているか、ですか?」
「あー、まぁ話さなくてもいいが」
「いえ、隠してもないので……。えっと、怪盗アンチって知ってます?」
「ニュースとかでやってる、古典的なフィクションの世界みたいな泥棒だったか?」
ここ数年、時々話題になる窃盗犯だ。フィクションに出てくるような金持ちから金銭や価値のあるものを盗み、恵まれない人にばらまく。
あまりにコテコテな、子供の妄想のような義賊だ。
それと一色に何の関わりがあるのか。まさかこのアホそうな子供が正体ということもないだろう。
「はい、その人で合ってます。僕は、怪盗もののフィクションの世界ではよくあるような、探偵みたいなものです」
「……探偵?」
「まぁ、探偵っぽいお仕事はしてませんけど、その怪盗アンチを捕まえようとしてるってだけですね。ほら、怪盗小説の探偵って、怪盗を捕まえる以外働いてないでしょう」
「描写されてないだけで働いているだろ。……探偵のごっこ遊びか」
「いえ、真面目に捕まえようとしてるんです」
コーヒーを一気飲みした一色はボサボサの髪を弄る。
「いや、捕まえるも何も、方法ないだろ。警察でも手こずってるぐらいで、アンチは予告状とかもしないしな。盗まれた後に対応するしかない以上、個人では何も出来ないだろ」
「んぅ、あるんですよ。警察にはなくて僕にはあるもの」
一色は手をパレットに突っ込んで、キャンパスにぺたりと小さな手形を貼り付ける。
「……一色にはあるもの?」
「怪盗は何を狙っているか」
キャンパスには札束の山が描かれ、その絵が投げ捨てられて次に金塊や宝石が描かれ、また放り投げられて、最後にモナリザにそっくりな絵が描かれる。
「まぁ、つまりは配るためのお金を求めているわけです。僕の絵はめちゃくちゃ素晴らしく、価値がありますから、絵を描いているだけで怪盗アンチがホイホイやってくるって寸法です」
「あー、なるほどな」
「……信じてませんね。まぁ構いませんが」
そう言いながらも一色は言葉を続ける。
「実際にちょいちょい来てるんですよ。月一ぐらいで盗みに」
「頻度高いな」
「まぁ、直接会ったことはないんですけど。出掛けたり寝てる間に盗まれてますよ」
「親が片付けしてるだけじゃねえの? 俺の部屋もよく雑誌がなくなるけど、親が勝手に捨ててるだけだし」
「そんなほのぼのとした話ではないんですけど……」
一色は空調の設定を変えてから、欠伸をして腕を大きく上げて身体を伸ばす。
「まぁ、そういうわけで学校に行ったりはしてないんです。えっと、貴方は」
「大学が大雨で休講になったから帰ってただけだ」
「あ、大学生だったんですね。お名前は?」
「
俺がそう名乗ると、一色はキャンバスに『時雨 秋人くんへ』と達筆な文字を書いてから俺に渡す。
「いや、いらない。雨で濡れるだろ」
「む、たしかにそうですね。雨、どれぐらいで止むでしょうか」
「流石に、ずっと邪魔するわけにもいかないから雨が降っていてもそろそろ帰るぞ」
「えー、絵持って帰らないんです?」
「……またもらいにくる」
いつくるとは言っていない。少し冷めた一杯目のコーヒーを飲み干して、すぐに二杯目のコーヒーに手を付けた。
一色は不満げな表情を隠そうともせずに、悩んだように『うーん』と表情を歪ませる。
「ちゃんと見つけられます?」
「流石によく通る道ぐらいは覚えられる」
自分の服の袖に絵の具が付いているのを見ながらゆっくりと立ち上がる。二杯目のコーヒーを一気に飲み干してから一色に礼を言う。
入り口に放り投げたままの傘を拾い、傘を外へと向けて差した後、大雨の降る外へと出る。
「じゃあ、また」
「僕はいつも暇に絵を描いているだけなんで、いつ来てもいいですよ」
軽く頷いてから扉を閉じる。
滝のようになっている路地をくぐり抜けて振り返る。雨の量が多すぎて、扉が見えそうにない。
翌日、その路地を通りから覗くと、そこに扉はなかった。
ほんの少し、嗅ぎ慣れたインスタントコーヒーの匂いだけ感じた気がする。
欠伸をして、頭を掻きながら大学へと向かった。
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