第2話 雪待ちの人

 晴耕雨読という言葉がある。

 晴れた日は畑を耕し、雨の日は家で読書をする。気ままな暮らしのこと。

 中学生の時、この四字熟語を知って衝撃を受けたのを覚えている。

 僕が知っている四字熟語は、どれも教訓や教示や戒めなど、「世の中の教え」という意味合いが強く、押しつけが強いなと思っていた。

 しかし、この言葉は、どこにも教えなどないし、「こうあるべき」という押しつけもなかった。晴れた日は畑を耕し、雨の日は家で読書をする。その考え方が、僕も好きだな、と思った。

 それからというもの、僕は雨の日は極力読書をするようになった。雨の音を聞いて、雨の匂いを嗅いで、雨の粒を眺めて、読書をする、この時間がとても好きだった。

 それは、雨ではなく雪だったとしても変わらない。寒くて億劫ではあるが、家の中にいるよりも、こうしてカフェまで歩いてきて温かいココアを飲んでいると、外の雪を見ているだけで楽しめるから不思議だ。

 白く細かい粒だ。地面に付いても透明になって消える。消えるはずなのに、いつの間にか地面を白く染める。それは積み重なり、絨毯となって、白い地面を形成する。

 道行く子供たちが誰も踏み入れていないふかふかの雪に飛び込む。どうして新雪というのは、踏み入りたくなるのだろうか。

「こんにちは。隣、お邪魔してもよろしいですか?」

「あぁ、はい。どうぞ」

 僕の席は、店の外の窓側だ。入口からも離れているため、寒さはない。しかし、外の雪を眺める絶好の場所だった。僕の背中側の席に、彼は座った。

「雪が、降ってますねぇ」

 彼は誰に言うでもなく、そう言った。その囁きにも似た小さな声は僕に届いたので、僕も返事をした。

「そうですね」

 年末ともなると、人の往来は少しは緩和されているように思えた。いつもは人がごった返すこの店の前の道も、人の通りはまばらだった。

 時折、子供連れが寄り道をし、人が踏み入れていないふかふかの雪を見つけては、きゃっきゃと飛び跳ねていた。待ちに待っていた雪の絨毯。連れている犬も一緒に駆け回る。

「私には、あの子たちのような娘がいたんですよ」

 彼は、僕にしか聞こえないような声で訥々と語った。

「私は、仕事が忙しく、娘のことは妻に任せっきりでした。仕事から帰った時はいつも既に眠っていて、だから私が娘を思い返す時はいつも、眠った顔なんです」

「そうなんですか」

「いつも、決まって今日のような雪の日です。娘の眠った顔を、思い出します」

 そう話す彼は、楽しい嬉しい思い出を話すような口調ではなく、自分の悲しい辛い思い出を吐き出しているかのような、歯切れの悪さを感じた。

「娘さん、お元気ですか?」

 僕は意図せず、誰も踏み入れていない処女地に足を踏み入れてしまった。彼の閉ざした心に降る雪を深く、踏みつけた。

「娘は、死にました」

 僕は、しまったと思った。

 もう何もかも遅い。僕は彼の言葉の先を待つ他なかった。

「娘は」

 彼の言葉はそこで詰まった。外に降る雪が、その間にも、足跡を埋めるように降り積もる。

「娘は、誘拐されましてね。身代金目当てに。警察も、私達も、出す手は出し尽くしました。娘は、降り続く雪の中に放置され、見つけた頃には雪のように、冷たくなっていました」

 彼は一切涙を流さなかった。目は外の雪景色を見つめ、おそらく、雪の向こうの娘さんを見つめているのだろうと、そう思わせる儚い力強さのようなものがあった。

「いつも見ていた、あの寝顔。髪は凍りつき、頬には涙が伝っていました。その氷の筋を、冷たい頬を、小さな身体を、抱きしめた時の、絶望は、忘れられない」

 雪が降る。子供たちの笑う、雪の中で遊ぶあの光景が、彼にはどう見えているのだろうか。

「私はね、待っているんです」

 僕は、もう言葉を挟むことはできなかった。ココアは冷え、温めたクッキーは固くなった。

 僕が雪の日に読んでいるどの物語よりも残酷で、冷酷な物語がその世にはあるんだ。雪を楽しむことがいかに幸せなことか。雪を見る度に凍りつく彼の不幸が、どれほどに辛いものか。僕にはその心を理解できようもない。

 雪は降り続く。音もなく、世界を白に染める。

 雪に寝転がる子供たちを見て、その中で静かに眠る彼の娘を見た。気がした。

 ふと後ろを振り返ると、彼は姿を消していた。

 僕は本をテーブルに置いた。だめだ。雪を見る度に、悲しい現実が脳裏をちらついた。白く悲しい粒が、悲しみを覆い尽くすだろうか。

 いや、決して消えない。白に塗り潰され、悲しみで押し潰され、融けない塊が心を永遠に凍らせ続けるような気がした。

 僕は家に帰ることにした。彼の居ない席から、背中から僕に悲しみの冷気をもたらしていた。彼が僕に雪の恐ろしさを教えてくれた。ここで雪を眺めながら読書を楽しむ余裕が僕にはもう無かった。雪を視界から遠ざけたかったのだ。

『私はね、待っているんです』

 僕はふと考えた。

 そう話す彼は、何を待っていたんだろうか。

 寒い風が、白い粒が僕に当たる。外は寒かった。

 白い景色に、黒い服の往来が見えた。僕もその黒い往来に混ざり、一体となって流れる。

 僕がつけた足跡の上にも当然、雪が降る。僕がいたという儚い証明を消し去るように。

 視界が白く染まる。大きな雪のつぶが眼鏡を遮る。

 帰ろう。

 今日の雪は、恐ろしい悪魔に見えた。



 完

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