第4話 珈琲は月の下で③
大迫小夏 -3-
「社長は許してくれたよ。よかった~」
桐文字はあの後、すぐに社長室へBBQの遅延の謝罪に行った。
社長はまだ打ち合わせ中だったらしく、BBQが1時間ほど遅れる旨のメモを見せ、二つ返事だったとのことだ。
仕事中だったのなら、BBQが多少遅れようと気にしないのも頷ける。
「打ち合わせが長引いてなかったら絶対怒られてたよ」
「楽しいお肉パーティーが、社長への接待パーティーになるとこだったのにね」
「どうして茜ちゃん、悔しそうな顔してるの?」
「私、桐文字ちゃんがひどい目に遭うとこ見るの好きなの」
「ただの嫌な奴!!」
18時過ぎ。
尾藤は車で近くのホームセンターに薪を買いに行った。
九十九塚はさっきの休憩室でのアイデアを元に、映画館を調べている。
桐文字は尾藤の仕事を手伝い、青山は自分の仕事が一段落ついたのか、休憩室のリクライニングチェアでゆったりしていた。
皆がみな、たまにトイレに数分、出て行くこともあった。小夏もそうだった。
その中でも桐文字は15分程度、席を離れていた。倉庫の肉の様子を見てきたらしい。
「お肉ならちゃんと冷蔵庫に入れてあるから大丈夫よ」九十九塚がそわそわと慌ただしい桐文字をなだめた。
「いえ、焼く30分〜1時間前から、常温にもどしていた方が美味しく焼けるんです!! その準備をしていたんです」
「あらそうなの、ごめんね」
「待ってる間、テラスでBBQの準備しておきましょうか? 九十九塚さーん」
青山が椅子でくるくる回りながら尋ねる。
「勝手に荷物準備すると社長怒るから、後でみんなでやりましょ。機嫌損ねると面倒でしょ?」
「仕切りたがりだからなぁ、社長は〜」
その時、電話が鳴った。九十九塚の机にだけ鳴っているから、内線だろうか。
「はい。ええ。分かりました。小夏さん、社長が打ち合わせが終わったから挨拶したいって」
ついに来た。社長からの誘い。社員たちがにやにやと笑いながら、小夏の方を見た。
しかし、まだ分からない。ただゲストに挨拶したいだけかもしれない。
「社長室はここを出て、すぐ右手の突き当たりのドアです」
「ありがとうございます」
「行ってらっしゃーい」
廊下を出た。髪留めに忍ばせた盗聴器のスイッチを入れる。深呼吸をした。ここからが、本番。
「失礼します」ノックをしてから中に入る。
ドアの外からうっすらと聞こえていたが、ムーディーなジャズが流れている。
社長室は先程のオフィスの半分ほどの広さ。天井には、先程オフィスにもあった丸い形の窓があった。
どうせ夜空を見るのなら、もう少し全体的に四角く広げれば、広さを確保できるのではないか。安全面でダメだったのかもしれない。東京タワーにある透明な床も、小さい。柱や鉄骨部分に窓はつけられないためだ。
「ようこそ、『縁の海』へ。久しぶりだね。大迫さん」少し日焼けした香嶋社長は、長時間の打ち合わせの後だと言うのに、疲れを感じさせない笑みを浮かべていた。「西荻窪のレセプションパーティー以来かな」
「そうですね。お招きいただきありがとうございます」
「今日はすまないね。こんなところまで来ていただいて。美白もいてくれたら良かったんだけど、君の友人はこのところ働きすぎたようだ。今日は美白の分までおもてなしさせてもらうよ」
「そんな。でもありがとうございます。お肉、楽しみです」
拍子抜けするくらい紳士的だ。見た目は肉食系というか、もっとグイグイくるものかと思って身構えていたのだけれど。
小夏の前で美白の名前を出して、きちんと小夏を「妻の友人」であると明言した。もし女性として誘うつもりなら、妻の名前を自ら出して、雰囲気を壊したりはしないだろう。
美白の考えすぎじゃないだろうか?
これだと、小夏の方から彼に誘いをかけないと、盗聴器の撮れ高は無さそうだ。
「そうだ。せっかく来てくれたんだ。ちょっと、珈琲を淹れてくれないか? そこに、珈琲豆と、コーヒーミルがある。豆を挽くときの音と香り、感触を楽しんでもらいたいんだ」
「わかりました」
社長室に入って左手にキッチンがあった。キッチンツールには使用感があった。ここで軽いおつまみを作って、来客に振舞ったりしているのだろうか?
珈琲豆……、直径20センチくらいの小さなドラム缶(と言ってもキッチンに置くものとしては大きい)のような形の缶があった。プラスチックの丸いカバーを外すと、珈琲のいい匂いがした。
香嶋社長は豆と言っていたが、この缶には珈琲の粉末が入っていた。よかった。豆の挽き方はよく知らなかったから。粉での淹れ方なら、なんとなくわかる。
置いてあったコーヒーフィルターに珈琲の粉を入れて、お湯を沸かし、セットする。
フィルターの中の、こんもりと入った焦げ茶色の粉に、お湯が数滴ずつ染み込んでいく。匂いがいっそう強くなる。粉にお湯が染みて、黒い泥のように見えた。その泥からぽたぽたと、珈琲がカップに零れ落ちてきた。
珈琲の匂いは嫌いじゃない。だけれど飲むと苦い。あの苦さは苦手だった。匂いだけなら楽しんであげてもいいのだけれど。
泥の中央に窪みができた。お湯がその窪みに溜まっては、沈みこんでいく。
この営みに見とれていたら、あっという間にカップに1杯の珈琲ができた。
「お待たせしました」
「ありがとう。早かったね。豆は上手く挽けたかい? 僕は豆を挽く時の香ばしい香りと、音が好きでね」
「え、いや、あの」
豆は挽いていない。と言おうとした時、香嶋社長の手にあるタブレット。メモアプリの文面に目が止まった。
【このまま僕の話に適当に相づちを打って欲しい】
「え?」
思わず口から疑問の言葉が出てきてしまった。
「……はい。豆を挽く時の音、ですか?」
会話は途切れなかった。彼は新たなメモを書き、小夏に見せた。
【この部屋には盗聴器が仕掛けられている】
「!?」
「そう、音だ。あの音は珈琲豆にしか出せないよ。焙煎機も購入して自分でやってみたんだが、あれはなかなか上手くいかなくてね。今はローストは店に任せきりだ。餅は餅屋ってやつさ」
この部屋に盗聴器が仕掛けられている。美白が仕掛けたものだろうか? 小夏が持っている盗聴器とはまた別のものだ。
【盗聴器を仕掛けたやつが何者かは知らないが、この応接室にも何社か招いている。同業他社か競合か。見当はつかないが、ここでの大事な話は、今は控えているんだ】
「はー、そうなんですね……」
「そういえばこの別荘の名前、『縁の海』の由来について話してなかったね。せっかく淹れてくれた珈琲が少し冷めてしまうが、これだけは聞いてくれないか」
【こんなことを頼むのはおかしいと思うが、ひとつ頼まれてくれないか】
「はい、何でしょうか」
香嶋社長は会話を不自然に途切れさせないように、次から次へと会話を繋げる。『縁の海』の由来。月が好きで、月への宇宙旅行へ応募したこと。落選したこと。知り合いの店で、宇宙旅行の費用を使って月面掘削機を買ったこと。巨大なドリルが付いていて、バッテリー式で女性でも持ち運べる。倉庫にあるから後で見てみないか。
そんな愉快なお話の中で、メモアプリの文面は緊迫感を帯びていた。
【この会社の情報を裏流ししている社員がいるようだ。この盗聴器もその類だろう】
【君にはこのBBQパーティーの最中にテラスを抜け出し、社員のPCから証拠を見つけ出してほしい】
【このUSBを持って行ってくれ。PCに差せば、誰のPCでもログインできる設定になっている。管理者権限のようなものだ】
【美白の友人ならば信頼できる。僕と君ではほぼ面識もない。社員からは疑われないはずだ】
【引き受けて……くれるだろうか】
頭の中は混乱しきっていた。美白に頼まれたのはスパイの真似事だった。しかし今回は本当のスパイだ。社員の中の裏切り者を探す。小夏には荷が重いのではないだろうか。
だが、ここで恩を売っておくと何かと有利に働くのも事実。美白への報告内容は当初の予定とは変わるが、香嶋社長に浮気の匂いは感じなかった。一つ目の任務は完了。二つ目の任務を引き受ける準備はできていた。
何より、小夏には任務をこなす自信があった。
香嶋社長の依頼に、小夏は無言の笑みで応えた。香嶋社長は頷いた。
【このあとテラスで一度落ち合おう。BBQ中に抜け出してもらうから、タイミングを決めておきたい】
小夏は鼻から空気を吸った。天井を見上げ、一度テラスを見た。空はすっかり暗くなり、星々のきらめきが見えた。天井の窓の形に添うようにくっきりとした満月が、星々のきらめきを喰うように輝いていた。
『隕石の通り道』なだけあって、今、小夏と月は一直線に向かい合っているようだった。
視線を社長のタブレットに移した。
【君が抜け出している最中は、他の社員は僕が足止めしておく。ここで話すと盗聴器に聞かれてしまうからね。USBメモリは渡しておく。よろしく頼むよ】
「楽しいお話、ありがとうございます」
社長の手からUSBメモリを受け取る。シンプルなデザイン。凶悪なセキュリティ解除ソフトが入っているようには見えなかった。
「あぁ、こちらこそありがとう。BBQが始まるまで、僕はここで君の淹れてくれた珈琲を楽しんでいることにするよ」
「わかりました。それでは失礼します」
ドアを開けて、廊下に出た。
手の中にはUSBメモリ。夢ではない。映画のような、現実。
九十九塚 佳織。
青山 茜。
桐文字 気泡。
尾藤 萌果。
名前だけしか知らない、黒部という男。
もしかしたら、まさかだけれど、呑鳴 美白。
この中に、会社に対しての裏切り者がいる。
少し頭の中を整理したかった。外の風に当たりたい。
オフィスへのドアを通り過ぎて、廊下を曲がり、小夏はテラスへの階段を上った。
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