第3話 『小さな』


「『序々に』夜が明けてきた……。はい、バツ」

 放課後、誰もいない教室で答案の採点をしていた。

 誰もがスマホを持つと、漢字を書けなくなるのだろう。予測変換で出てきてしまうからだ。だからこうして、書き取り問題になると、変な漢字を書いてしまう。そして、「変な漢字を書いている」ということに気づかない。違和感に気づけば、他に「じょ」と読む漢字を当てはめて、正解を導くことができるのではないだろうか。

 私はスマホを持たない。ほとんどのことはノートPCで済ませてしまう。スマホを持つと、猥雑なものが増える。管理する情報が増える。後ろめたいことをする際に、持つ情報は最低限にしておいたほうが逃げるのに都合がいい。GPSまで管理されていれば、スマホを持っている方が枷となるだろう。身軽な方が動きやすい。

 ここまで徹底しているのは、後ろめたさの原因があるからだ。

 私の受け持つクラスにいる、白波マリのことを思い浮かべた。高校教師になって十年を超え、若いの頃に戦っていた若い少女への目移りというのにも落ち着いてきた。彼女らはいくら可愛らしくても、子供だった。他人の子供に恋愛感情を、卑しい感情を向けるのは教師としてふさわしくない。そういう心の防護壁を着実に、確実に建設してきた。もう心動かされることは無い、そう考えていた。

 しかし、彼女はその壁をすり抜けてきた。いや、すり抜けたように見えて、その壁を壊したのは自分の方だったのかもしれない。子供よりも大人びていて、逆に自分の子供の部分を刺激されたのかもしれない。彼女と同じステージに降りてしまえば、一瞬だった。

 今は後悔している。自分には妻がいて、もうすぐ子供も産まれるのだ。家庭を持つ身として、生徒を導く立場として、手を出してはいけない人だ。

 ある意味では、私の弱みを握られているようなものだ。唯一、まだ行為を行なっていない、という言い訳にもならない言い分を背に、彼女との仲は続けられている。彼女が生きている限り、ここを卒業してもその罪はなくなりはしないだろう。

 どうにかしないと。しかし、どうするべきなのだろうか。どうしようも、ない。

 一度手に染めたならば、その覚悟を持って、生きていかなければならない。

 本来は。

 一度通り過ぎた可能性。その邪な考えを、心を動かしてはならない。行動に移したら最後、後戻りはできなくなるだろう。

 もう一度、彼女に話をしてみよう。私はPCから彼女のアカウントに向けてDMを送った。LINEと違い、ここなら秘密の会話ができる。私のアカウントも、一見して私だとは思われないようにしてある。もしスクショを晒されたとしても、言い逃れできる。もしもの場合でも、抜かりはない。

 証拠を残してはいけない。常にそのことを意識して行動していれば、大丈夫だ。



 ◇



 時間通りに彼女はやってきた。極めて冷静を装っているのは分かる。私から呼び出すことはあまりないからだ。

「白波、今日の漢字のテスト、間違えていたぞ。お前は書き間違いが多い。一度書き終わってから見直せばそんなことは……」

「峯田先生から話なんて、珍しいじゃん。どうしたの?」

 私が本題を話しあぐねていることを察したのだろう。

「あぁ、実は、な」

「別れてって話なら、帰るからね」

「白波、あのな……」

「まだ手しか繋いでないのに。先生と生徒が手なんて繋がないよね? ほら、これ」

 白波の首には、ネックレスのチェーンがきらめいた。

「先生が生徒にこんなものプレゼントしないよね? 制服の中に隠して、いつも先生を感じてるんだよ?」

「それは……」

 二人で行った初めてのデート。その帰り道のアクセサリー売り場で、キラキラした目をした白波。何か形の残る思い出が欲しい、そう言った。普段の私ならば証拠の残る買い物はしない。しかし、その時は私も少なからず浮かれていたのだ。高揚していたのだと思う。機嫌を損なわれても困る。安い買い物だと、そのネックレスをプレゼントした。

 まさかその夜、妻から妊娠を告げられるとは思わなかった。

 もう後戻りはできない。白波の、思いつめたような顔。高校生も、恋をするとこんな顔をするのだ。もうすでに、一人前の女性だ。子供と恋人ごっこをしているのではないのだと、気づいた。

 妻がいる私が、他の女性と付き合うこと。それは不倫に他ならない。にも増して、教師と生徒のつながりなど、周囲の人間は黙っていないだろう。殺人よりも重い罪だ。

 殺人よりも。そう、殺人なんて、それに比べれば小さな罪だ。彼女を殺してしまえば? その事実を隠してしまえば? 隠し通せるだろう。

 私の心が徐々に邪なものに呑まれてゆく。目の前の彼女を消せば。安寧が待っている、と。

「ね、先生。このネックレス、先生が付けて。向こうの部屋で、待ってるね」

 ネックレスを私に手渡し、白波は隣の部屋に隠れた。

 隣の部屋はよく逢引きに使っていた。準備室はいつもカギがかかっていて、人もめったに通らない。

 準備室に入ると、そこには背を向けた彼女が座っていた。長い髪を上にまとめ上げ、じっと待っている。目の前には、小さな肩と、細い首。まるで抱きしめられるのを待っているかのような、可愛らしい背中。

 ここなら誰も見ていない。誰にも気づかれない。

 この細い首を、絞め上げてしまえば!

 私はネックレスを手放し、その細い首に触れた。

 彼女は大人しく私に身を任せている。ちっとも私を疑っていない。まだ男を知らないのだ。大人を知らないのだろう。可哀そうに。私と関係を持ったばかりに、ここで、終わるのだ。

 その肩に両手を置いて、一気に首を両手で絞め上げた。

「……っ!…………、か……ぅ」

「ぐっ……、ううう!!」

 椅子を蹴飛ばした彼女を押し倒し、うつ伏せ状態で暴れる少女の首を絞め続けた。絞めている間、首には彼女の脈動を感じた。

 まだ、生きている。

 まだ。まだ生きている。

 まだ、緩めてはいけない。

 まだ。

 まだ、か。

 まだ。

 まだ。まだ。

 彼女の首に、少しずつ、私の指が沈み込んでいった。

 気づいたら、彼女は大人しくなっていた。脈動も感じられない。静寂が、教室を埋め尽くしていた。

「しら、なみ?」

 ここで倒れているのは、白波なのか? おそるおそる、自分が殺した少女の顔を確認する。身体を起こすと、そこには数分前に見た大人びた少女の、見たことのない苦しみ抜いた顔があった。よだれが口から飛び散り、さきほどまで生きていた痕跡が残る。生きていた。つまりは既に、絶命していた。

 遺体をうつ伏せに戻した。目を合わせると、気が滅入ってしまいそうだ。既に、殺してしまったのだ。もう、後戻りはできない。私の目指す、幸せに向けて全力で向かわなければならない。

 隠し通せ。幸い、ここには私しかいない。

 持てるすべての知恵を使い、この勝負ゲームに打ち勝つのだ。

 そこで、生徒との逢瀬という、罪を無かったことにする。

「サヨナラ、小さ罰み」

 徐々に、この罪悪感も麻痺してくるだろう。

 両手に抱え込んだ、少女の形をした大きな罪を引きずり、私は準備室から出た。もちろん、忘れずに証拠ネックレスを右手に握りしめて。

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