第4話 『罪』
破り取られたノートの切れ端。これは僕にとっては宝物だ。代々受け継いでいきたいほどの、輝かしいもの。
いや、切れ端はただの切れ端だ。ここに「何が書いてあるか」が重要だった。
事の始まりは、数日前。ある決定的瞬間を写真に収めてしまった。僕はクラスメイトの万引きの瞬間を目撃してしまったのだ。これがただのクラスメイトだったのなら、次はやめなよ、なんて忠告もしないままに写真を消して終わりだろう。
しかし、それは何より、僕が気になっていた彼女だったから。彼女の弱みを握る形になってしまったのは、僕としては遺憾だった。
彼女の名前は白波マリ。僕は彼女とは違う世界の生き物で、見ているだけでも悪いことをしているような気持ちになった。話しかけるなんて、卒業するまで一度もないだろう、って思っていたのに。
そんな小さな罪悪感に、サヨナラを告げる出来事が起きたのだ。
僕は勇気を振り絞って、彼女に話しかけた。「あの、白波さん。こないだ駅の近くのドラッグストアで、買い物してたよね」「え。森崎くん、だっけ。急に、どうしたの?」
「これ……」
僕はスマホを取り出して、写真を見せた。すると白波さんの顔が一瞬にして強張った。
「あのさ……」
白波さんはすぐに、僕のノートを破り取って、何か書いてから丸め、ぶつけてきた。その紙を拾って中を開くと、可愛い文字で「放課後、4階西棟のトイレで」と書いてあった。
白波さんは、その後すぐ彼女の友達の輪の中に戻っていった。そうだよね。今ここで僕なんかと喋っていたら、周りのみんなに気付かれてしまうかもしれない。
これは、白波さんと僕との、初めての約束だった。そのノートの切れ端が、僕にとっては最高の贈り物だと思えたんだ。
放課後が待ち遠しかった。その日の授業では、峯田先生が何を話していたのかも、実は全然覚えていないんだ。ずっと、手の中のノートの切れ端を眺めていた。僕は影が薄いからか、ぼーっとしていても、授業中に誰にもさされることは無かった。
ホームルームを終えると、僕は4階のトイレに真っ直ぐに向かった。クラスに放課後お喋りする友達もいなかったから、邪魔されるようなことも無かった。一方、白波さんの方は、友達をまくのが大変だったんだろう。ホームルームが終わった後、30分くらい経った頃、やってきた。
「森崎くん、さっきの写真、あれ……」
「あ、うん。誰にも言わないよ。だから……」
僕と付き合ってほしいんだ。
なんて、僕が口にする機会があったなんて。言葉だけを拾えば、素晴らしい愛の告白だけれど。
でも、それは彼女の弱みを利用した、意地汚い方法だった。
それは僕もわかっていたけれど。僕の心がちくりと痛んだ。
でも、その後の白波さんの言葉は、僕の予想をはるかに超えていた。
「ごめんね。実は、峯田先生にも弱みを握られていて、逆らえないの、ほら」
彼女が見せてきたのは、twitterのDMの画面だった。
彼女がtwitterをやっているのは、クラスメイトとの会話でなんとなく知っていた。けれど、カギをかけているようで、検索してもヒットしない。僕が彼女の生活を覗き見るなんてことはできない。それなのに。
峯田。話の相手は担任の教師だという。あいつは僕の知らない彼女を知っているというのか。それも、弱みを握って、彼女を縛り付けている。そんなこと、許されるのだろうか。
『今日の放課後、科学室のカギをあけておくから、19時頃、待っていふよ』
『うん、わかった。後でね』
彼女はスマホをしまった。
「そういうことだから、ごめん、じゃあね。サヨナラ」
僕の頭の中のノートの切れ端の文面は、さっきのDMの文章が上書きされていた。
『科学室に、19時』
『待っている』
と、いうことは。その少し前に行けば、彼女と会う前の峯田先生と話ができるかもしれない。
先生のくせに。
オトナのくせに。
彼女を苦しめる奴を、野放しにはできない。
◇
19時の少し前、僕は科学室を訪れた。
まだ誰もいないようだった。
どうしよう。僕の頭は真っ白だった。心が口から出て行ってしまったかのよう。
白波さんと、別れてもらおう。そして、僕に振り向いてもらうんだ。
彼女を助けることができるのは、僕しかいない。
科学室の隅で入り口の扉を見つめながら、待っていると、突然、準備室の方から音がした。
中から、峯田先生が出てきた。なんだ、もう来ていたのか。
「あ、先生」
「な。……森崎か。どうしてここに」
先生は大量の汗をかいていた。ここまで走って来たのだろうか。
「先生、白波さんに聞きました。彼女と付き合っているんですね」
「ば、馬鹿なことを言うんじゃない。それはあの子の勘違いだ」
右手を前に差し出し、「違う」と言う、その手に光る鎖が見えた。
それは、今日トイレの前で話した時に見た、彼女の首元に光っていた鎖だった。
「先生、そのネックレスは……?」
「あっ」
先生は咄嗟にその右手を後ろに隠した。
「まさか、奥に白波さんがいるんですか?」
「森崎、少し外で話をしないか?」
明らかに、先生は準備室から僕を遠ざけようとしていた。僕は一度、先生に従い、科学室を出て行こうと背中を向けた。
先生が入り口に近づいた時を見計らって、準備室に駆け寄る。僕にしては素早く動けた方だったと思う。
「おい! 森崎! やめろ!!!」
先生の怒号が背中を襲う。今まで聞いたことのないような叫び声を耳にして、思わず立ち止まってしまいそうになる。僕は思い切って準備室の扉を開けた。
そこには。
女子生徒がうつ伏せに横たわっていた。
寝ている、という感じではない。まるで、生きていないような。
でも、マネキンにも見えない。
この後ろ姿。まさか、そんな。
「白波……、さん?」
近づいて、身体を抱き起こして顔を確認した。
今までずっと見てきた。でも、見たことのない苦しみの顔をしていた。
けれどもそれは、マネキンなんかじゃなくて、白波さんだった。
息をしていない。
びっくりして、手を離してしまった。白波さんの身体は床に落ち、「ゴトッ」と音を鳴らした。
恐怖が、身体を支配する。
死んでいる。白波さんが。
どうして。誰が。
誰……?
目の前には、表情を無くした峯田先生が立ち尽くしていた。
唯一の出入り口である、科学室への扉の前に。
「森崎」
「せん、せい」
「大人しくしていろ。大人しく、いいな?」
「い、いやだ」
声が、出てこない。歯が音を立てる。うまく喋れない。
先生の腕が僕に向かって伸びる。
「な、なにっ……」
その時、先生の右手のネックレスが、準備室の扉のドアノブに引っ掛かった。先生の動きが止まり、後ろに注意が向いた。
僕が生き残れるチャンスは、ここしかない。
何か。何かしないと。
そこで、僕は落ちていたカッターナイフを拾った。
こんなところに落ちているなんて、なんて僕は運がいいんだ。
彼女の仇だ。悪い大人。彼女を奪い。命をも奪った。躊躇はいらない。
その首に向けて、僕はカッターを当てて、引き抜いた。
固い手ごたえの後、一気に血が噴き出した。
「!!」
首にできた切れ目を手で押さえる峯田先生は、とめどなく噴き出る血に驚いて、準備室を走り回った。穴の空いた水風船のように、グランドで回るスプリンクラーのように、辺りに血が飛び散った。
先生は僕を押さえつけようとしたが、首から手を離すと、噴き出る血の勢いは強くなって、堪らずその手を首に戻した。
先生は既に終わりかけている自分の命をどうにか繋ぎとめようとしているのか、手を自分の血で染めて、先ほどまでいた扉の前に立ち尽くし、やがてうつ伏せに倒れた。
準備室は血まみれだ。血の海の中で先生が死んでいるのは明らかだった。僕は、先生の血を浴びて、とても気持ちが悪かった。
白波さんに、会いたい。
先生の血を浴びて横たわる彼女に、もう一度。
僕は彼女を抱きしめた。既に死んでいる彼女を。
さっきまで生きていた彼女を。
冷たい。
もう二度と戻らない彼女の笑みを思うと、悲しくなった。
どうすれば、彼女を助けることができたのだろうか。
万引きをした彼女の写真を撮ることなく、その場で彼女を諭すことができていたら。そうすれば、先生に弱みを握られることもなかったのかもしれない。
僕の邪な考えが、彼女の命を奪ってしまった。
黙って、何もしなかったこの罪。小さな罪が、巡り巡って、大きな罪となる。
今更、後悔しても遅い。こうなってしまったら。もう、何もかも。
「サヨナラ、小さな罪」
罪が無くなったわけではない。より大きな罪で塗りつぶされただけに過ぎなかった。
その大きな罪に、僕は塗りつぶされてしまいそうだった。
とにかく、この部屋から出たかった。
これからの人生に何も希望が無い。一番大切なものを失ったからだ。
ずっと目で追いかけていた、彼女はもういない。
ゲームもマンガも心に空いた隙間を埋める代わりにはならない。
もう、僕は何もいらない。
何も、なくなってしまったよ。罪以外、何も。
[問題編、終]
[推理編につづく]
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます