妖精の宿る森
かかし
第1話
日曜日の早朝の下り電車は空いていた。窓枠の形に切り取られた朝日が、向かいの座席を照らしていたる。その中で、幼い二人の子供を連れた夫婦が、楽しそうに笑っていた。
「イメージと違うんだよね」
美術監督補佐の永井幸三の声が、頭の中で響く。昨日の仕事場でのことを思い出していた。何度描き直してもうまくいかない。こんなイメージではないことは自分でもわかっていた。だから尚更に不甲斐ない。
わたしは美術系の専門学校を卒業後、アニメ制作会社に背景美術として就職した。アニメを観るのも、絵を描くことも大好きだった。ただ、人物を描いたり、物語のストーリーを考えることは苦手だったので、背景を描く仕事は天職だと思っていた。しかし、最近、本当にこの仕事は自分に向いているのか。才能がないんじゃないかと思うことがある。
今手掛けているのは、長編アニメの1シーンで、森の中で少女が妖精と出会うシーンだ。たおやかで無垢な存在の森の妖精。それが宿る森も相応しく純然たるものであるはずだ。
その森のイメージが浮かばない。都会の公園にある木々とは違うし、ジャングルのそれとも全く違う。清白な霧の中に沈む森の印象。何度描き直しても、上辺だけを捉えた軽率なものになってしまう。決定的な何かが欠落していた。そこに絶対になければならないものが描けていない。
幼い頃に経験した森。祖母と過ごした森。物心がつくまで、わたしは祖母と二人で生活していた。あそこにはとても濃く、圧倒的な存在感のあるものが満ちていた。あれからずっと訪ねていない。祖母が消えてから。以来、虚ろな記憶の中で、あの森は封印されていた。
今、その森を目指している。とても遠い所だと思っていた。母に半ば強引に住所を聞き、行き方をスマートフォンで調べた。池袋から東武東上線に乗って1時間弱、その後、バスに乗り換え、30分くらいで到着する。想像していたよりもずっと近い。
楽しそうにしていた親子は前の駅で降りていった。密集していた建物の間隔がだんだんと疎になっていく。車両には数人の乗客がいるだけで、日差しはまだ朝の清潔さを残していた。
母は祖母の話をするのを嫌う。祖母が消えたのは、わたしが5歳の時だ。わたしと祖母は毎日のように、一緒に森の中へ入った。山菜やイチジク、きのこなど収穫し、森の空気を吸い、音を聴いた。祖母は森の全てを把握していた。どこに行けば何があるのか、何が手に入るかを知っていた。森の切り株に腰掛け、寒い時期は温かい洞の中で、持参した弁当を一緒に食べた。祖母とたくさんの話をした。森や生命に関すること。祖母と過ごした日々のことを鮮明に覚えている。なのに、最後に祖母と森へ入った時の記憶を全く失っていた。
その日、わたしと祖母はいつものように一緒に森の中へ入った。それを見ていた村の人が、夜になっても帰ってこないわたし達のことを心配し、警察に届けた。今と同じくらいの時期、5月の終わりで、寒い季節ではなかったけれど、夕方から強い雨が降っていた。
翌日から、警察と消防を含め、多くの村人が参加して捜索が行われた。東京から母も駆けつけた。雨は3日間降り続いた。
雨の止んだ朝、わたしだけが家に戻ってきた。何事もなかったように。着ていた白いシャツもはほとんど汚れていなかった。空腹な様子もない。ただ、何を聞いても、その3日間のことは覚えていなかった。祖母がどうしたのかもわからなかった。一言だけ、「おばあちゃんは森へ帰った」とわたしは言った。
目的の駅に近づくと、車窓からの景色は緑が圧倒的に多くなってくる。
祖母の思い出は、柔らかで心地よいものだ。背中から抱きかかえられた時の祖母の温もりや、落ち着いた声、それに森の清爽な風、揺れる木々、小川の水音、全てが調和し、寓話の一幕のように感じられた。
祖母が消えた時のことは今でも思い出すことができない。それでも、そのことを素直に受け入れている自分がいる。祖母はあの日、森の一部になったのだと。
電車を降りると、駅は思っていたよりも近代的なもので、駅前にはロータリーがあった。高いビルこそないが、想像していたような田舎の駅ではなかった。調べておいた路線バスは時間ぴったりに、ロータリーにあるバス停にやってきた。乗ったのはわたしを含め3人だった。目的のバス停まではおよそ30分。途中で何人かが乗り込んできて、そして降りた。景色は徐々に緑が濃くなり、窓が全て閉められているにもかかわらず、バスの中は木々の香りで満たされた。背中に当たる光が、人の温もりのように感じられる。目的のバス停に着いた時、乗客はわたし一人だった。わたしがバス停で降りると、乗客が誰もいなくなり身軽になったバスは、少し気抜けしたような排気音を立てながら、勢いよく発車した。
バス停は小さな集落の外れにあった。時刻表を見て、帰りの時間を確認する。今日の最終の時間は17時5分だった。平日は17時35分なので、日曜日は30分時間が早い。
スマートフォンの地図アプリに入力した住所を目指して歩き始める。ナビは、わたしを正確にある一点に導いていた。集落を突き抜け、しばらく歩くと前方に人間世界との境界を示すように緑の壁があった。境界の手前に高台があり、スマートフォンのナビはその場所を示していた。
建っていたはずの家は取り壊されていて、空き地になっていた。雑草は生えていたが、村の人たちが手を入れていてくれているのだろう、荒れた感じはなかった。
その土地の上に立つ。高くなった日差しが眩しく照りつけている。緑の壁へ小道が続いていた。小道は飲み込まれるように緑の壁の中へ入り、先は見えなかった。胸が高鳴った。見覚えがあるような気もした。懐かしいような気もした。でも、その気持ちはとてもおぼろげで、ぼんやりと漂う印象だった。
向こう側で待ち構えているものの存在を感じた。中へ入ってしまったら、戻ってこれない予感。求めているものがきっとそこにあるだろうという確信。少し恐ろしい気がした。しかし、足はそのまま動き続け、小道へ向かっていた。
緑の壁の中に入った途端、空気が変わった。光の溢れた世界から、陰が色濃く存在する世界。木漏れ日が戯れるように舞っている。陰は光を鮮明に映し出し、その存在を強調する。陰は自在に光を拘束し、開放する。足を進め、森の奥に入っていくと、陰は重なり合い、より深い陰となる。それが積み重なり、収束して闇となる。しかし、その闇は完全な漆黒ではない。目を閉じた時に見える残像のように、形容しがたい何かが色彩を放っていた。闇は森中に散在しているが、その周りを妖精のように飛び交う木漏れ日が装飾し、森全体としては明るい感じがする。陰と光は相互に称え合い、協調し、複雑なバランスで重なり合っていた。その光景を、わたしはとても美しいと思った。高ぶっていた気持ちは安らぎ、穏やかに沈んでいく。
道に沿って、歩みを進めていく。奥に行くに従い、小道は細くなり境界が不明瞭になる。それでも、わたしは進み続ける。
頬に雨の雫を感じた。先程まで散在していた陽光は消失し、濃い緑の霧が世界を覆った。大きな木の下に入る。頬や腕に雨の飛沫が当たる。懐かしさを感じる。これは、わたしがかつて記憶の外で体験した世界だ。雨が森を包み込んだ。雫は森を完璧な静寂へといざなう。森は無音に浸され、その周りに寂然たる雨音が降り注ぐ。
傘を持ってきていないことを少し悔やんだ。来た道を振り返ると、雨に濡れた草が覆いかぶさり、緑に溶け込み、森の中に消えていた。迷ったかもしれない。しかし、不安はあまりなかった。何かに守られているという確かな思いがあった。
右側の小高くなっている丘の麓に、小さな洞があった。わたしはその中で雨宿りをする。雨脚はより強くなり、風も出てくる。風になびく濡れた大きな木々は、巨人のように森の中を闊歩した。洞の中で、蟻の行列が蝶の死骸を運んでいる。わたしはその規則正しい行進を眺めている。自然の中にいることを感じる。その一部であることを自覚する。雨音に混じって、祖母の声が聞こえたような気がした。祖母とわたしが最後に森へ入った日、わたし達は雨の中で、こんな風に森を見つめ続けていたのかもしれない。時間が不規則な流れをしているように感じた。背中から祖母に抱かれている温もりを感じた。祖母の存在を近くに感じた。
眠っていたのかもしれない。祖母とたくさんの話をした。祖母は確かにここにいて、拡散し、森を包んでいた。森は無限の朽ち果てた死を礎として、その表層に命を生み出す。祖母は、新たな生命として、今もこの森の中に息づいていた。
森を描きたいと思った。こんなにも絵を描きたいと思ったのは久しぶりだった。失いかけていた絵を描くことへの情熱が戻ってきたような気がした。
絵を描きたい。そう強く思った。
気がつくと、雨は止んでいた。森は様相を変え、夕日に照らされ、赤く輝いていた。洞の前に小道が続いている。
ハッとして、時計を見る。
16時40分。終バスの時間は17時5分だ。
まずい、間に合わない。慌てて走り始める。
足がもつれ、何度も転びそうになる。思いの外、森の深くまで入っていたようで、出口へは、なかなかたどり着けたい。からかっているかのように、草や小枝が足に絡みつく。
結局、バス停に着いた時、腕時計は17時30分を指していた。日は沈み、西の空がオレンジ色から紫に変わるグラデーションに彩られていた。所々に浮かぶ丸い雲の縁が、黄金に輝いている。どのようにして駅まで帰ったらよいのか、途方に暮れていた。
その時、道路の先の方から、路線バスがやってくるのが見えた。何らかの理由で遅延していたのかもしれない。
「助かった」
わたしは携帯電話を取り出し、時間を確認する。
妖精の宿る森 かかし @kakashia
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