第2話

「湯加減はどうだ」

「うむ。なかなか熱いな! 肌が焼け始めた!」


 とかいうサイコパスな発言を悠々としている男は、最も熱いであろう溶岩の釜の縁に背中を預けながら俺と話していた。肌がじゅうじゅう言ってるぞ。

 俺も思わず気の毒になる音がするが思考の耳栓をして、いたって普通にしている。


「ケルベロスは熱くないのか?」


 ふと男がそういうことを訊くので、


「……まあ、少しは熱苦しいが、別に肌がやけるほどではないな」

「そうか。やはり神の子だな」


 男は意味深長なことを言って、後頭部を釜の縁に預ける。今度は髪のタンパク質が焦げる臭いがする。


「……心地がいいな」


 ……?


「お前、正気か? 気でも狂ったのか」

「まさか。この俺のどこがそう見える」


 いささか不機嫌になりながら、男は片手を上げる。

 よもや釜の温度が下がっているのではあるまいか。俺は試しに湯に前足を浸す。


「……熱くない」

「そうか。俺にはなかなかの温度に感じるぞ。ほれ」


 男が上げた片腕を指さすと、腕は真っ赤に腫れていた。しかし本来の釜茹で地獄の熱量での火傷では無い。

 俺は遠くで足掻き苦しむ他の罪人たちを見るが、皮膚は爛れているものが大半で、絶え間なく叫び続けている。

 俺は訝しんで男をじっと見る。


「……なあ、男よ、知っているか?」

「なんだ?」

「地獄には、罪悪感と後悔に比例して辛さが増す刑があるのだ」

「なるほど。もしや、この釜が?」

「そうだ。……釜を熱がらないやつは、自分が悪いと思っていない頭のおかしなやつらだ。そいつらはな、この地獄よりもさらに下の、単純に過酷な世界に連れていかれる」

「……ほう」

「向こうに血の池地獄がある」

「なるほどそっちに行かせてもらおうか」


 流石の男も肝が冷えたのか、ザバッと湯を撒き散らしながら上がってくる。すると、今まさに浸かろうとしていた男にかかって、男が耳をつんざく悲鳴とともに湯に身投げした。可哀想に……。

 男と俺は若干頭を下げて、それから素知らぬ顔で次の血の池地獄へと向かった。


 血の池地獄は今日も繁盛している。

 何しろ、ここが一番“楽”なのだ。体は蛭やら蛆やらにまとわりつかれるが、それさえ我慢すればあとはこの臭いだけ。

 まあ俺にはこの腐った血の鉄の臭いが最も辛いのだけれど。

 鼻呼吸を諦め口で呼吸していると、男が勢いよく飛び込んだ。お陰で俺の鼻孔を史上最悪の液体が覆う。


「ほう、これは確かに楽だな。……どうしたのだケルベロスよ」

「おま、お前のせいだぞ……!!」


 鼻の先が削れるかと思うほど地面に擦り付けて、涙目で男を見る。こいつは犬の気持ちも知らずに……!


 しかしそこでふと気がついた。


「……なぜ、お前の周りに蛭が近づいてこないのだ」

「む? さあな。俺の心がやはり綺麗なのやもしれん」

「馬鹿言え。地獄送りにされるほどの大罪人の心が綺麗だと?」


 俺は半分呆れ半分哀れみの目で男を見る。男が俺の目に合わせてきた瞳は真剣だった。

 男はふぅと息を吐いて語る。


「……俺がなぜ百人も殺したか、教えてやろうか」


 別に俺は聞く義務も無いし、たかが一人の人間の話などいつか忘れてしまうのだからどうでもよいはずだった。

 しかし俺は好奇心に負けた。


「聞こう」


 俺は地面に腹ばいになって聞く体勢をとる。


「では。あれは俺が二十の歳のときだ」

「待て」


 俺は思わず男の話を止めた。

 地獄の番人である俺にその時ばかりは不機嫌な目を向けた男に、俺は申し訳なく思いながら、


「……嗅覚が死にそうだ。針山にでも行こう」

「俺が死ぬ可能性は考慮されていないようだな……」

「悪いな。だが死ねないから安心しろ」


 あろうことか地獄の番人が一人の罪人に対して謝って、そして血の池地獄を後にした。


 針山地獄へ向かう途中。


「その針山とやらは、痛いのか? それとも罪の重さと関係してくるのか?」

「いいや、針山は普通に痛い。俺でも耐え兼ねる」

「なぜそこに案内するのだ」


 仕方がないだろう。お前は罪人だし。来た道には戻れない。一周しなければまたあそこには戻れないのだ。


 てくてくと足場の悪い中を歩いていると、ふと俺の視界に挙動不審な女の姿が見えた。

 女は見張りの悪魔の死角を縫って、戻っては行けない道を戻り血の池地獄へと向かっている。おおよそ、悪魔に急き立てられて辛い針山に行かされたのだろう。


「少し席を外す。お前は向かっていてくれ」

「ん? なぜだ」


 俺は苦々しげに言う。


「仕事だ」



 男と別れて俺はすぐさま女の元へ駆け出した。女はついに俺に気がついて、慌ててかけ出す。しかし人の足では獣の四足に勝てるわけが無い。

 俺は女の行く道を塞ぐように立ちはだかる。そして獰猛な犬歯をむき出しにして尋ねる。


「何度目だ」

「は、はい……」

「何度目かと訊いている!」


 苛立ちをあらわにして女に詰め寄ると、女は慌てて後ろに逃げようとして、足を絡ませて無様に尻もちをつく。

 俺はさらに距離を詰める。


「答えろ!」

「は、初めてです! 逃げようとしたのは初めてでございます!」


 涙をポロポロと流す女。必死に弁明をして、許しをこうよう頭を地面にこれでもかと擦り付ける。


「嘘をつけ」


 俺が言い放ったその瞬間、女の慌ただしい動きも鳴き声も全てが無くなった。


 残ったのは犬のような息遣い。


 ……本当に人間は理解できない。何故そこで嘘をつく必要があるのか。


「お前。俺が犬だからと侮っただろう。俺の脳みそでは自分のことなど覚えられていないだろうと、そうたかを括って俺に平然と嘘をついたのだろう」

「は――い、いえ、まさか! そんなことは!」

「ここまで来てまだ嘘をつくか」


 俺の体に怒りが充ちていく。

 俺の知る人間は、皆こうだ。なんのメリットもない嘘を平然とついて、バレたらバツの悪そうな顔をして抵抗をやめる。


 それならば最初から無駄な抵抗をするな。


 人間の醜さは、俺が最も嫌いとするものなのだから。


「ひっ……!」


 女が恐怖に小さく喉を鳴らして後ずさる。それも当然。

 巨大化した番犬など恐ろしいだろう。


「下層へ案内しよう」


 俺が樹齢百年の大木ほどある前足を振りかざして地面に叩きつけると、いとも容易くクロウンモが割れるかのように地面が崩壊し、女は穴のそこへ悲鳴をあげながら落ちていった。

 俺のもうひとつの仕事だ。地獄の規則を破った人間を、下層へ案内してやること。こっちの方が、閻魔の前で逃げる人間の首を噛むよりも気持ちは楽である。

 そして今、地獄にいるべき人間との一幕を挟んで、ますます俺の中の男への興味は増していく。

 地獄にいながら、誠実で裏表のない男。僅かの時を過ごしただけでも俺にはわかる。やつは善人に振り分けられる男のはずなのだ。

 俺は感情を収めて体を元に戻す。後味が悪い。わざわざ見せつけるように体が大きくなる仕組みは果たして必要だったのか。



 俺は男の元に戻った。男は針の山に体を埋めているところだった。肋骨の下あたりから突き出る太い針が生々しい。しかし大分勢いよく背中から飛び込んだようで、体中から先を赤くした針が突き出ている。かろうじて頭は寸前で止めたらしいが、キラリと後頭部の下で光っていた。


「悪いな。ひとりで行かせて」

「それはいい。……にしても、恐ろしいな、番犬というのは」

「……そうか」


 その時俺は寂しさを感じた。地獄の番人、番犬である俺が、寂しさを。

 俺はこの時、犬ながらにも人に嫌われることが辛かった。


「ま、元に戻ればこう可愛げもある。安心しろ」

「……なんのことだ」

「バレバレだ。尾をそんなに垂らして」


 男が苦笑いを浮かべると、俺も少し恥ずかしくなった。わかりやすい尻尾め。もう少し抑えろ。

 俺は自分の尾を追い回す。それが滑稽だったのか男は高々に笑った。

 俺も追いかけるのをやめて、じっと男の方を見た。


「……やはりお前は普通の人間とはちがう」

「そうか? 俺にはそうは思えんがな」

「聞かせてくれ。お前の話を」

「ああ」


 そうして男は語り出す。

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