地獄の名犬ケルベロス
今野 春
第1話
俺はこれまでに「まともな」人間に会ったことがない。
それも当然のことで、なぜならここは生前に悪事を働いた人間の集まる「地獄」だからだ。
涙を流しながら嘘八百の演技を披露する哀れな男、地獄の沙汰も金次第などと妄言を信じ込んだ醜い老婆。「子供がいるのです」と、自分が殺した子供への愛情を語る気違いの女。
地獄を取り仕切る閻魔の隣で、番犬である俺はじっとそれらを聞き続けた。
そして――時折いる、逃げ出そうとする人間の首を、噛むのだ。
すると、たちまち噛まれた人間は骨となり、死の世界で本当の死を味わう。
俺の仕事はただそれだけ、ではないが。
―― ―― ―― ―― ――
そんなある日、ひとりの男がやってきた。
地毛は金髪で、筋骨隆々な上半身は惜しげも無くあらわにされている。股間は心許ない布きれに隠され、丸太のような脚がくっついている。顔は俺が見たどの人間よりも整った勇ましい男は、何を言うでもなく閻魔の前に立つ。
「お前の罪状を読みあげよう」
人間の三倍の体格はある閻魔は、その体格に見合うこれも大きな黒い本を持ち上げ、男に告げる。
「お前は計百人を超える人間を殺した罪で、殺人一人につき十年。計千年の地獄送りとする。何か言いたいことは」
大抵ならば、ここで誰もが泣きわめくところだ。人間の考えうる時間感覚を遥かに超える時を地獄で過ごすのだから、嫌に決まっている。
しかし男は、
「わかった。案内してくれ」
そうあっさりと受け入れた。
衝撃的な返答に、その場にいた誰もが固まった。閻魔も想定外の返しにしばし呆然としていたが、取り直して役員の悪魔に指示を飛ばす。
その間、俺は形容しがたい好奇心に襲われていた。彼はいったい何を思っているのか。イレギュラーは俺の思考をかき乱す。
男が部屋を出されるその時、俺は思い切って四足で立ち上がって閻魔に訊いた。
「あいつについて行ってもいいだろうか?」
閻魔は答える。
「構わないぞ。……俺もついて行ってどんなことをするか見てみたいぐらいだが、生憎と少し調べものがあるらしいからな。行ってこい」
なんて、地獄の主らしからぬこと言って俺を送り出した。素直な主に思わず犬の口から笑みがこぼれる。
俺は男の元へ駆け寄る。そして男を連れる悪魔に交代を申し出た。仕事は大丈夫なのかと聞かれたが知らぬ。俺は俺の好奇心が第一である。
そうして楽々と男の傍を手に入れた俺は、男に話しかける。振れている尻尾には気づかずに。
「地獄は怖くないのか」
「怖いわけが無いだろ。なぜ生前の報いをきちんと受け取らぬのだ。そっちの方が、俺には不思議でたまらない」
生前の報いをきちんと受け取る。
そんなセリフを果たしてこの先に聞くことがあるか。
「……変わった罪人だ」
「はっはっは! 安心しろ。俺は少し地獄を楽しみにしてるんだ! 案内は頼んだぞ」
男は無遠慮に俺の自慢の黒い毛並みの頭をわしゃわしゃと撫でた。
俺も悪い気はしなかったので、男のさせるがままにしていた。
閻魔の間の外は、足の裏を痛める赤黒い小石が散らばる直線のこれまた赤黒い一本道で、壁も天井もなく景色がよく見える。
と言っても、見ていて楽しいような景色ではなく、燃え盛る大地に煮えたぎる溶岩の釜、火に照らされる針山と真っ赤な池等などが見えるだけのまさに地獄。
ただ、空を仰ぎみれば、醜い怪鳥のまた上に煌びやかな黄金の雲がある。
そこは天国と地獄の境。罪人たちはいつも空を見上げ、手の届かない世界から蜘蛛の糸が垂れてくるのを待ちわびているようだ。
しかし、そんな都合のいい世界ではない。地獄は現実的で非情なのだ。
なんてひととおりの感想を考え終わると、男が俺に話しかける。
「それにしても、どうやら俺の思っていたヘルとは姿かたちがなかなかに違うようだ。俺の知っている神話に、あんなごつい男は居なかったと思うが」
「ほう。そうなのか」
「ああ。お前は知っているがな、ケルベロス」
男はそう言って笑う。俺が少し驚いたのが気取られたのだろうか。
それよりもやはり男の素性が気になり俺は尋ねる。
「お前はどこの生まれなんだ?」
「俺か? 俺はローマ生まれだ」
「なるほどな」
ヨーロッパ、というところか。現世の情報も暇つぶしにはなる。俺は自分の勉強の成果が出たことにひとり浮き足立つ。
そうこうしていると、長いような短いような一本道は終点を告げ、今度はまた足の裏の痛い階段を下っていく。
「これからようやく地獄の刑場だ。歓迎されるといいな」
「はっはっは! 俺も楽しみにしておくとしよう!」
階段を下った先にあるのは、燃え盛る大地。真っ黒な溶岩。
“釜茹で地獄”
不思議な男との地獄めぐりが始まった。
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