第三話「To」


 ――ゴロッ、と重い物のころがる感触が、膝に伝わってくる。

 ぼんやりと、視界に入っていた。

 鈍色に照らされる缶が、傾いたカゴから転がり、柵の隙間をすり抜けて――

「あっ――!」

 あわてて伸ばした指の先を、重い缶が落ちていった。

 空の中へ。


 呆然と。

 ただ呆然と、それを目で追っていた。

 缶は遙か下の灰色に吸い込まれていき、やがて見えなくなった。

 さわぐ胸を押さえつけ、耳を澄ませ続ける。

 しかし、何も聞えてはこない。

 いつもどおり、風の音だけだ。

「……」

 木偶のように、ただ座り込んで、缶の消えた先を眺めていた。

 風が一陣、通り過ぎる。

 うつむいてやり過ごす。

 下がった視線の先に、風に煽られたカゴが落ちていた。

 俺はよろよろと立ち上がり、カゴを拾い上げると、滑車へ取り付けた。

 滑車は動かない。

 柵にかろうじて引っかかっていた壺も、拾ってカゴへ入れる。

 だが、動かない。

 のろのろと見回す。

 上へと伸びるパイプにはまる、細い缶が目に付いた。

 缶を取り外し、滑車へ。

 カゴの中に缶を放り込もうとして、ふと手を止めた。

 懐から、綺麗に意味不明な数字がならんだ紙と、書きつける道具を取り出し、缶へと入れる。

 そして、カゴの中に放り込む。

 やはり動かない。

 懐をまさぐる。水の入った壺に手が触れた。放り込む。

 動かない。

 風防鏡を、帽子を、手袋を放り込む。

 小さなカゴが、初めて一杯になったのを見た。

 じっと、見続けた。


「……」


 懐に手を突っ込む。

 かじかんだ手を温めるように、あるいは、ありもしない何かを探すように、懐をまさぐる。

 ――カサリ、と紙が指に触れた。

 便せんだ。

 誰かが誰かに宛てた、雪を降らせてほしいという、ささやかな願い。

 それが記された便せんだ。

 破かないように、そっと取り出し、カゴの隙間へと差し入れた。

 細い鋼線にくくられたカゴが、腕に押され、僅かに揺れる。


 そして、揺れは収まった。

 

「……ッ、ハ、ははは――」

 

 体が引きつるように揺れる。

 絶え間なく息が漏れ出る。唇が勝手に釣り上がるのを止められない。

 ――これ、なんだっけ?

 目尻に涙がたまり、息が苦しくなる。喉からは掠れたような音。

 それでも声は止まらない。


 ああ。

 そうか。そうだった。

 これは、笑いだ。

 俺は、笑ってるんだ――。


 風が吹く。

 おさまらない動悸と一緒に柵を抱え、もたれ込む。

 俺は笑いを吐き出し続ける。


 ふいに、凪が訪れた。

 目の前には、見渡す限りの空。

 ――他には何もない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る