第二話 「――」

 水の壺を慎重にしまい込み、懐にあった空の壺と交換した。

 カゴを手すりに引っかけてそっと立つ。滅入っていた気持ちは、ほんの少し凪いでいるようだった。

 もう半周、車輪をまわる。

 上層へのパイプには、さっきまでなかった鈍色のパイプが嵌まっている。

 取り外すと、いつもの様にもう一つ。二つ目はずっしりと重い。

 軽い方の缶を開けると、カサリと紙が一枚滑り出てくる。

 人間が書いたにしてはあまりに精巧な筆致で、数字と記号の羅列。


『S=J313_OD c63_OH3C 666_O ccc_――』


 これは指示書だ。

 銅色のパイプを3秒、鉄色のパイプのレバーを開けて、錫色のパイプを締める。そしたら錆色の――。

 頭の中に、作業手順を思い描いていく。

 うん。

 なるほどな。

 大方、今日は曇りにでもしたいのだろう。

 風で飛ばされぬよう、紙を懐へしまい込むと、軽い缶はそのままパイプへ。重い缶は、慎重に腕へと抱え込んだ。

 

 ずっしりと重い缶を持って、再び滑車の前へ。

 空の壺とともにカゴへ詰めるためだ。

 この重い缶を入れて滑車へ取り付けると、カゴはゆっくり下へ滑っていくのだ。そして日が暮れる前になると、反対側にくくりつけられたカゴが戻ってきて、また俺は食事にありつける。

 そういう寸法だ。

 それにしても、この重い缶には、いったい何が入っているんだろうか。

 一度だって中身を確かめたことはないし、缶が下から戻ってきたこともない。

 中を見ようと考えたことは、もちろんある。

 だが――こんなつまらないことで、上階級への道をふいにするわけにはいかない。

 確か、あの時、そんなことを考えていた。

 そのはずだ。

 もっとも、重い缶には継ぎ目も隙間も見当たらず、どうやって開けるのか見当もつかないのだが。


 壺や缶を、カゴの中へ詰めようとした時だ。

 ふと、気がつく。 

 カゴの底に、しなびた小さな紙切れが敷かれている。

 何度も重い壺に伸されていたのだろう。薄汚れた紙は、しっかりと張り付いていた。

 俺は手袋を外し、慎重に紙を引き剥がす。

 折りたたまれた便せんのようだ。

 パリパリに張り付いていた便せんを、破かないように、そっと、慎重に開いていく。

 中に表われたのは、大きくて拙い筆跡だ。ところどころが染みて、文字が滲んでいる。


『――へ。――も、あり ――。明 はクリ マス――。  、雪をふらせ くれると、うれしい す。 ――』


 幼い字だった。

 宛名も、差出人も分からない。

 一体、いつ出された手紙だったのだろうか。

 昨日、一昨日? もっと前だろうか。きっとそうに違いない、が、わからない。


 そもそも、俺は今日の日付すら分からないのだ。

 確か去年までは覚えていた。いや、一昨年だったか? あるいは、もっと前?

 この場所は、いつも冷たい風が吹きすさぶ。

 それでも、極寒の冷たさと、湿気った冷たさの違いくらいは分かる。

 だが、日付は分からない。

 眼下はいつも灰色に染まっている。

 晴れた日、遠くに見える山肌が被る雪の、いつもより厚いとか薄いとか、それは見て取れる。

 しかし、月日は分からないのだ。

 この子は誰に頼みたかったのだろうか。

 俺は前任者の名前を知らない。

 いつだったか、下で聞いた話だ。

 この場所の前任者は、いつも、いつの間にか消えてしまうという。

 この狭く頼りない鉄のバルコニーで。外には空だけが無限に広がる場所で。

 いつの間にか、消えてしまうそうだ。

 その話をさも楽しそうに話していた、下卑た笑みは覚えている。

 塔から来たと吹いていた男だ。

 ようやく一人歩きを許された頃の俺に、こう言っていたはずだ。


『なぁ、――。塔に行く方法を知りたいかィ? 上階級へなりたいんだろゥ?』


 ……待て。


『なぁ、――。塔に行く方法を知りたいかィ?』


 待ってくれ。


『なぁ、――。塔に行く方法を』

 

 おい、待てよ。


 嘘だろう?


 膝が落ち、冷え切った鉄板にへたり込んだ。

 落ちた視線の先には、自分の手。ほつれて薄汚れた手袋。

 デカデカと施された、『313』の刺繍。


『なぁ、313』


 違う!


『なぁ、――』

 

 俺は――……。

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