空の独房
地底人ジョー
第一話 「313」
延々と、雪を擦り合わせるような音がしている。
滑車の音だ。
指の先が痺れるように痛い。
『313』とデカデカと縫い付けられた、付け心地の悪い手袋を脱いだ。
かじかむ手へ息を吹き付ける。
目を覆う、重たい風防鏡が曇る。蒼と白の視界が、混じり合うようにぼやけた。
たまらず重たい腕を持ち上げて、風防鏡を額へと押しやる。
風が強い。
極寒の冷気がひび割れた肌を刺す。
ここは風が強い。
足下には、真ん中の抜けた円盤状の鉄床。太い車輪の端に立っているかのようだ。
頭上には、反転した円錐状の建物が、触れそうな一まで迫っている。鉄床はその先端に吊されている。
鉄床の縁からは、頼りない柵がひょろりと伸びて囲っている。
柵の向こうには何もない。
鉄床の下にも。
水平には、どこまでも一面の雲海。
眼下には、灰色の落書きのような街並みと、白い山嶺、黒い大海。
頭上には、ギラギラとした鋼鉄の空が半分。
残りの半分は、太陽と、抜けるような蒼い天蓋だ。
空を覆う巨大な機械の大木、「塔」。
太陽に手が届きそうなくらい空高くで、「塔」から伸びる枝に吊されている、逆さになった円錐形の、その先端。
そのわずかなスペースにある鉄のバルコニーが、俺の職場であり、寝床であり、独房だ。
この場所を囲うのは頼りない鉄柵だけだ。繋がれてもいない。
だが周りには、見渡す限りの空だけがあった。
他には何もない。
吸い込まれそうな外から目を逸らし、手袋をはめ直して手すりを握る。
そっとかがんで、鉄床の穴へと伸びる、円錐の先端部分を見やった。
先端は、様々な形のレバーやハンドルが付いた、色とりどりのパイプで覆われている。複雑に絡み合い、上から下へと伸びている。
パイプの先端は、すべて真下へ向かって開いている。もし下から見上げられるなら、きっと蜂の巣のようになっているはずだ。
直接見たことはないが。
誰も確認したことなどないだろう。
めったにない晴れの日になると、遙か下に山の頂が見える。
見える範囲で、すべての山の頂だ。つまり、この場所より高い場所はない。
この場所より高いのは、円錐を支える「塔」と、その枝だけだ。
パイプの先端は、俺たち「下階級」の住む囚人街を向いているけれど、どんなに目の良い奴だって見られないはずだ。
見ているとすれば、これを作って吊した本人たち、「上階級」の先祖くらいだろうか。誰も覚えていないくらい昔の話だ。
今、「塔」で暮らしているはずの「上階級」どもだって、誰も見たことはないに違いない。
――まぁ、いい。
それよりも今見るべきは、パイプの群れの横に取り付けられた、大小様々なメーターだ。
そこには、浮かぶ針だったり、水銀だったり、文字盤だったりと、とにかく色々な数字が並んでいる。
それを紙に書き付けていくのだ。
数字の意味はよく分からない。
分からないが、何となく想像できるようになった。
これは、たぶん、空の状態を指しているんだろう。
とにかく片っ端から書き付けていく。
一通り書き付けると、今度は手すりの側まで伸びているパイプへと向かった。
パイプの先端は、弾力のある黒い乾いた粘土のような物で覆われている。そこに嵌まっていた、細長い缶を手に取った。
この缶は、開けると中に物が入れられるようになっているのだ。
紙を入れ、再び管の先へはめ込む。
パイプの横にある擦り切れたスイッチを押し込むと、シャコンッ、っと勢いよく缶が吸い込まれ、上へと運ばれていった。
パイプを伝ってくる余韻に耳を澄ませていると、カコッ、と小さな音が響く。
滑車の止まった音だろう。
今足を支えている鉄の車輪の、ちょうど反対側。パイプの束の裏側だ。
手すりを掴み、ゆっくりと半周する。
円錐の先端、束になったパイプの裏には、小さいが物々しい滑車が取り付けられている。滑車には鋼鉄の紐がかかっており、くたびれたカゴが鋼線の編み目にくくられている。
すこし傾いたカゴへ、俺はいそいそと手を伸ばした。
下へ落とさないよう、カゴを慎重に取り外す。
しっかりとした重みを腕の中へ招き入れると、車輪の床へと腰を下ろし、柵に背中を預けた。
カゴの蓋を跳ね上げる。中には固いパンと、冷たい壺が大小二つ。小さい方の栓を開けると、白く濁ったシチューが覗く。
微かに漂うミルクとバターの香りに、たまらずがっついた。
――。
呆気なく、食事が終わった。
大きい壺を取り出し、固い栓をはずすと、一口飲んだ。冷たく澄んだ水が、脂っこいミルクの香りを洗い流す。
食事という名の作業が終わった。
もう何回目の作業だろうか。
いつか上層に来て、上階級の仲間入りをしたら、美味いものをたらふく食ってやろうと思っていた。
だが俺は、こんな空の上まで来て、冷め切ったシチューを水で流し込んでいる。
――ああ。
温かいシチューが恋しい。
今はもう、その舌触りすら思い出せないけれど。
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