第11話 幸せな痛いお話

よしこさんは「私も大人になったんだ」と手当てをすませ、便所の戸を開けて出ようとすると


ゴン!


と、ドアがぶつかる音がして「痛い!」と声がしました。


便所の戸を開けると、まさおさんが頭を押さえて尻餅をついていました。


「大丈夫?」って聞くと


恥ずかしそうに「痛いのです」と、まさおさんは尻餅をついた状態でよしこさんを仰ぎ見て言いました。


よしこさんはそんなまさおさんを見て、「男らしいなあ」と思いました。


それから一週間後の事です。

よしこさんとまさおさんが夕食を摂っています。

よしこさんのお母さんとお父さんは村の集会で「遅くなる」と出かけて行って、二人だけなのです。

母方の親戚のまさおさんは黙ってご飯をむしゃむしゃ食べていました。

よしこさんが「今日は静かだね」って聞くと、まさおさんは「そうだね」と言ってご飯をお代わりしました。


よしこさんが 「この前、便所のところ、痛かった?」と聞きました。


まさおさんは「忘れたよ」と言って、顔を少し赤くしたようです。


よしこさんはそんなまさおさんを見て、「男らしいなあ」と思いました。


田舎の村の夜の10時は真っ暗くらの深夜です。


「さらっ」と音がしました。


また「さらっ」と音がしました。


襖を隔てた隣の部屋で、まさおさんが枕元のスタンドをつけて読書をしているようです。


よしこさんが「何の本を読んでいるの?」って聞きました。

「ゲーテの若きヴェルターの悩みなのです」と、まさおさんはちょっとぶっきらぼうに答えました。

よしこさんは「どんなお話し?」って聞くと

「悲恋なのです」

そして「もう寝る」 と言ってスタンドの紐を「かちっ」と引きました。


よしこさんの父と母はまだ帰ってきません。

もとより、よしこさんの両親は今夜は帰ってこないつもりです。



柱時計の音が「ちっく、たっく」と時を刻んでいます。


「痛くない?」って、よしこさんがぽつりと言いました。


まさおさんはなんとなく「ぎくり」としました。

柱時計の音が急に大きくなったようです。


「ねえ、痛くない?」って よしこさんはまた聞きました。


まさおさんの心臓は柱時計の音よりも大きく早く、「ちっく、たっく、ちっく、たっく」と打っていました。


「はれているんでしょ?」ってよしこさんが聞きました。 「はれて、痛いのでしょ?」って、よしこさんはまた言いました。


まさおさんはもう心臓が破裂しそうでした。


「こっちへ来ない?」って、 よしこさんが消えそうな声で言いました・・・


よしこさんは薄れ行く意識の中で、あの時の事を鮮明に思い出していました。


よしこさんは、「まさおさん」、「まさおさん」と言って、一人息子の手を軽く握りながら息を引き取りました。


よしこはさんは、まさおさんの痛みと自分の痛みを感じて、とても幸せだったのです。


まさおさんは、母がこんなに嬉しそうな顔をして旅立ったのは、きっと戦死したという僕の父でもあった、母の生涯の恋人と息を引き取る間際に巡り逢えたのだと思いました。


まさおさんは自分の妻と子供達と、その嫁や婿達に孫達とみんな揃ってお母さんを看取れた事を、とても幸せだと感謝しました。


それはまさおさんが物心ついてから、ずっとずっと、母の事を考えると、胸の奥のどこかがちくりと痛かったからです。

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