シャングリ・ラ
有智子
砂漠の夢
「砂漠の夢をみたことはあるかい。橙色の」
隣に座っていた彼が私にそう問いかけた。
ずいぶん静かな雨の降る夜だった。当時私は、フォルトル地方を襲った季節外れの豪雨がもたらした水害の程度を確認するために中央から派遣されていて、まだ少し雨が降りやまない中を、日中くたくたになるまで歩き回っていた。この土地でこんな災害があるなんて、歴史上ほとんどはじめてのことだった。多くの記者がやってきて、連日状況を知らせては紙面をにぎわせていた。けれどもそこに住む人々は、徐々に明らかになる被害の全容を恐れながらも、突然の天の試練を乗り越えようとする活気の方が勝っていた。特に夜には、町の隅で営業をひっそり続けている酒場などで、そうした住民の声を聞くことができた。それがこの憂鬱な仕事に携わる私の心をわずかながら癒した。
酒場の丸裸のまま吊るされた電球の、あたたかい橙色のあかりに照らされた彼の横顔を見た。彫りの深い端正な顔に濃く落ちる影の所為か、少しやつれているように見えた。落ち窪んだ目の周りに隈があるのも見て取れる。
彼とはここで初めて出会った。いかにも旅行者然とした風貌からして、地元の人間でないことはすぐわかった。おおかた、今回の豪雨の関連でこの地を訪れたのだろう。私もそうであった。我々は初対面とは思えないほど意気投合し、お酒を飲む場ではだいたいそういうものかもしれないが、ろくに名前やお互いの職業も明かさずによく喋った。彼の姿勢や喋り方のクセなどが、彼を非常に聡明で、落ち着いて機知に富んだ人物に思わせた。私は彼の傍にいるだけですっかり安心していた。他者にそう感じさせる何かを彼は持っていた。
安心。やはりそうとしか言いようがない。
「砂漠?」
「そう。橙色の砂漠だ。全く同じ夢を、縁もゆかりもない複数人が見たことがある、という証言があって、私は時々こうしてその話を集めている」
私は彼の質問にいいやと答えた。
「そうか。とても特徴的な話で……でもね、実のところ、不思議なことに私は、私と出会う以前に砂漠の夢を見た人は、必ず話せばわかるんだ」
「話せばわかる?つまり?」
「どうにも感覚的なものなので、はっきり言葉にするのは難しい。でも、この人は、あの夢を見たことがあるという人は、話すとわかる。私が説明を始める前に、夢の内容を語りはじめる。そしてそれは、確かめるまでもなくほとんど一致している。ほとんど皆が、まるで同じ舞台劇の一場面をその目で見たかのように、その夢が記憶に残っている……」
手元の琥珀色の液体を口元に運びながら、その不思議な語り口に私はドキドキしていた。怪談を聞くときのような好奇心がもう既に跳ね回っていたからだ。調査員の仕事をしていると、どうしても多くの人から話を聞くことになる。私はそんなときに触れる民話的なおとぎ話や、地方に伝わる伝説の類を聞くのが好きだった。
「それじゃあ、あなたは私がその夢を見ていないことはすぐにわかったのだね」
「だけどあなたは、なんだか知っていそうな気がしたのでね」
「本当に本や、舞台で見たということはないのかな」
「私もそう思ったのだが……あいにく今までの生涯、そんな本や舞台を見たことがなくてね。そして、肝心なのが色なんだ。目に焼き付くような強烈な橙色の記憶がある。これは単なる読書体験の中で得られるものではないと思うよ」
座っているカウンターの椅子の尻の位置をもぞもぞと修正して、彼と視線が合う。彼は面白そうな瞳で私を見返した。残念ながらその期待には応えられなかったものの、彼は私を話すに足ると判断してくれたらしい。
聞いてくれるかいと彼は言った。睫毛が落とす影が彼の顔に憂いを帯びさせた。私はもちろん聞かせてくれと返した。
*
彼はたった一人で砂漠に立っていた。
辺りには草木一本見当たらず、まるで記号化された絵本の中の世界のように、どこまでも鮮やかな青い空と橙色の砂漠が続いている。一面の砂。強い日差しが作る影が荒野に黒々とおちていた。砂漠の風が伸びた髪を揺らした。風で舞う細かい砂粒が肌にあたる感覚がしていた。時々、強い風が吹いて、そのたびに口や目に砂が入らないよう、目を閉じてやり過ごす。
彼はここで待っていた。
何を待っているのかもわからなかったが、とにかく彼はここにくれば、待ちわびていた何かに会えると信じていた。彼はとっくに国を捨てていて、故国にはもはや何一つ心を残すことは無かった。
故国はさほど大きな国でもなかったが、周辺国との戦争が長く絶えず、彼もまた兵役に就いていた。大きな手柄を立てたことはなく、ただ自分が生き延びることだけを考えてきた。それは、国へ残してきた妻の元へ帰ると約束していたからだ。
妻は彼が幼い頃から思いを寄せていた村の美しい娘で、芯が強く不思議な力を持っていた。それはほとんど偶然みたいなものだと思っていて、彼は別段気にしたことはなかったけれど、妻のおまじないめいた予言はいつも当たった。村の子供が山で行方不明になった時、その場所を訪れてもいないのにどこにいるか示したり、医者が匙を投げた患者を看病して奇跡的に回復させたりした。
妻が亡くなったのは、結局その戦争のためだった。彼が兵役をつとめている間家を守っていた彼女は、戦争が終わる少し前に、忍び込んだ他国の諜報員が仕掛けた爆撃で死んだ。皮肉にも、ちょうど彼が一時帰省を許された時期のことだった。ほんの一瞬目を離した隙に妻は死んだ。彼自身も兵役に戻れないほどひどい怪我をした。妻の体は血にまみれ、しっとりと美しかった面影も残さなかった。彼の悲しみと絶望は深かった。彼が傷ついた腕で最期に妻を抱きかかえた時、妻はかすれた優しい声で、愛していると言った。
「必ずまたあなたに会いたい」
彼は生きる希望を失い、打ちひしがれ、娯楽に溺れ、死にかけていた。どうしようもない生活をなんとか続けていたけれど、ある日、彼は何かを感じた。
それは彼を呼び続けていた。
朝晩と彼を呼ぶ予感としか言いようがないもの。今は確かに感じられるそれが、いつ消えてしまうかと考えると彼は居てもたってもいられなくなった。早晩荷造りをはじめた。酒も煙草も捨てた。妻と二人暮らした家も、妻と出会った国も村も捨てた。
彼はその予感を追って旅を続けた。そして気付けばこの場所へ来ていたのだった。
*
この砂漠の風景は「荒野の誘惑」を思わせた。祈りを捧げる救世主のもとへ悪魔がやってきて、この世の全てを与える代わりに悪魔を拝めと言い、そして救世主はそれを退ける。
聖典の有名な一説だ。
救世主は、何もかも死に絶えたようなこの美しい荒野で、ただひとつの高潔な魂を持っていた。
彼は何を待っているのだろう?神の洗礼か?それとも悪魔の誘惑だろうか?
*
どれくらいそうしていただろう。太陽が頂点を通りすぎていた。彼は、彼自身が長い間待っていたものがまもなくやってくる気配を感じた。それは形のない空気が揺れるような感覚だった。大気が鳴動する。何か大きなものがやってくる。彼の体に、歓喜にも恐怖ともつかない震えが走った。
くる。
やってくる。彼が待ち焦がれ、思い続けてきた何かが、遂にやってくる。彼は一度目を閉じ、そして何も見逃さないように目を開けた。はるか向こうに、砂埃が舞っている。黒い雲のような塊が見える。彼はそれを凝視し続ける。迎える仕草もせずに、ただ待っている。
その黒い塊がゆっくりと、だが確実にスピードを上げてやってくる。砂埃が舞い、靄がかって判別できなかったが、彼は唐突にそれがなんであるかに思い至った。
それは何百何千という蝶の大群だった。鮮やかな橙色の、太陽の色をした蝶々だ。彼らは天鵞絨のような美しい羽を羽ばたかせ、彼めがけてやってくる。彼はそれを信じられない思いで見つめていた。あまりに驚いていた。そしてそれは、美しい光景だった。砂漠を渡る蝶がいることも、それがこのあたりで話題になることも、ここへ向かうまでに耳に挟んではいたが、まさか、それだったなんて。
最初の一匹が先行してすうっと彼の元にやってくると、彼の体に止まった。続いてやって きた何匹もの蝶が同じように彼にまとわりついて、橙色の蝶々は、次々に彼の体に群がった。砂漠にひとり立っていた男の姿は、どんどん蠢く蝶に包まれて、橙色の人型になる。
彼は蝶の中に埋没する。
どのくらいの時間が経ったのか、彼にはわからなかった。その邂逅は一瞬のようであり、また永遠ほどに長い時間であったようにも思われた。
やがて一匹の蝶が、仲間を促すようにふわりとその塊から離れて飛んだ。二匹、三匹と、次々にその後を追っていく。彼の向こうに続いていく砂漠を渡る為に、蝶たちはまるで激しい風にさらわれて、引きはがされていくように離れていった。何重もの蝶の膜に包まれていた彼の体から、ゆっくりと蝶々が飛んでいく。橙色の蝶の群れは彼に群がるのをやめ、自分たちの旅を再開した。
彼の体が全て現れる。
一番最後にやってきて一番最後に彼を離れた蝶は、名残惜しげにゆったりと彼の周りを飛び回った。彼はつぶやく。
「愛している」
そう言った直後、仲間を追うようにひらひらと飛び去った。
「会いにきてくれてありがとう」
そしてその黒ずんだ蝶の群れが砂漠の向こうに見えなくなるまで、いつまでもそこに立っていた。
*
帰宅してから私はずっと彼が語ったその夢の話について反芻していた。なんとも不思議な余韻だ。確かに、美しい場面を通しで見ていたかのような臨場感があった。彼の語り口が上手だったのもあるけれど。
私は途中で、なんとなくこの話は、彼の自作なんじゃないかという気がしていた。もしくは、ごく似た経験をしたか。こういう不思議な夢をみたことがありますか?といって、人を楽しませるためだけの。あるいは、彼が個人的に、見た夢から連想した創作なのではないかと。
もちろんそんなことをして何ひとつ得にはならないのだけれど、すこし人を楽しませるための不思議な話というものは、あったって困らないと思う。私はノートにその話を覚書として書き留めて、寝具にもぐりこんだ。明日もたぶん、くたくたになるまで歩き回るだろう。彼にはまた会えるだろうか。
だがそれから、私が彼に会うことはなかった。
そして私はこの夢の話を手掛かりに、彼を探し始めた。
シャングリ・ラ 有智子 @7_ank
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