晴澄





 生の意味について、考えたい人だけ読んでください。


 俺が今まで書いてきたことや、これ以後の活動、関係への印象の流れで、勢いで、そのまま読もうとしないでください。

 俺はこの文章を読者を自死させることを目的として書いたわけではない。しかし他よりその可能性は高い。

 こう書かれて読まなかったり、読み進めてみて途中で止めたとしても、あなたが弱いとか臆病だとか負けたとか頭が悪いとか間違ってるとか逃げたとか、そういったことを決して意味しません。また生の意味についてすでに納得できているのなら読む必要はありません。途中で納得できたのならやはりもう読まなくて結構です。

 できれば先にふたつの実践を。

 一つ目。脱力、観念を下す、あらゆる存在の生起するに任せる、ただある、ただ感じる、ただ表現されてある。今。

 二つ目。禅定。依らない、依らないに依らない。知、感覚、像へ依らない。空を読んでいる途中で沈み込んでしまったら、この実践に移ってください。

 読んだ後について。できれば生の意味の問題については俺に依りつくことがないように。不信ただなかまで到れなかった場合にもそうしていただきたい。つまり、ないとは思うが信仰じみたものは勘弁してくれということです。自分で考え、感じてください。どうしても依りたいなら内側に秘めていただきたい。


 空を読んでも自死するというなら、声か文字による意思表示は受けます。意思表示しなくても大丈夫です。そのあと自死しようが生きようが、俺のやりかたで慰霊します。


 生の意味について、考えたい人だけ読んでください。




生の意味 外観


 生の意味というとき、生の意味について思い悩むとき、彼は生の定義以上のものを求めている。生の有用性以上のものを求めている。若い言葉で 私の存在理由 というときもまた、因果関係以上のものを求めている。

 生きるとは何なのか、なぜ生きているのか、といった問いは、生きるとか死ぬといったことの前提の揺れ、内奥の全的な揺れとして、問われている。生の意味というとき、この意味というのは、意味作用以上のことを言っている。


 もし意味という言葉が、流れの行き先や、行き先によって定まる流れそのもののことを指すのだとしたら、生の意味への疑いは、いまの流れをひとまず滞留させる行いだと言える。

 このとき、生の意味を求めるとは、流れの確認であり、制御であり、固定化であり、制止であり、放任であり、解放であり、加速化であり、遅速化であり、集合化であり、散開化であり、補強であり、方向転換であり、否定であり、肯定であり、超越のことを言う。


 存在の使用方法についての疑いと、存在することへの疑いは違う。納得の仕方も違う。波の流れ方や行き先を疑うか、波それ自体を疑うかの違いだ。前者はよく流れれば納得となる。後者は流れとはそもそも何であるかと問うている。よく流れるために意味に触れる人がいる。流れそのものを問うために意味に触れる人がいる。


 意味が現実を超えることのない現在に生きる人がいる。あるいは意味が現実を超えて過剰に行き交う前に、意味への依りに耐えきれなくなる前に、祝祭や解放の体験においてそれらが転覆、処理される秩序に生きる人がいる。彼らは人が生の意味を求めることがあるなんて知らないし、必要としないし、知っても関心を向けない。

 意味が現実を超えて行き交う現在に生きる人がいる。意味としての生を把握できるようになり、現実を超えて意味としての生を把握できるようになり、共同体から自立して意味としての生を自己決定できるようになった現在に生きる人がいる。彼らのなかには、意味が足りている、意味に依りきれている人がいる。あるいは足りないとか、依れないということに、異和感を覚えない人がいる。あるいは足りないとか、依れないということに、ときにはっきりとした、あるいはぼんやりとした異和感を覚えつつも、それ以上に何か考えようとしない人がいる。あるいは異和感を捨て生きる人がいる。あるいは異和感を捨て生きられない人がいる。

 異和感を覚え、気にしたり考えたりする人がいる。異和感に耐えきれずに生きることをやめる人がいる。考えたり、考えるのをやめたりを反復する人がいる。生の現在に満ち足りて、なお異和感を覚えて考える人がいる。異和感を覚えていなくても考える人がいる。


 何のために生の意味の有無を求めるのか? なぜ分からなければならないのか? なぜ納得しなければならないのか? なぜ依らなければならないのか?

 異和感が気になるからという人もいる。そうせずにはいられないからという人もいる。疑ってしまったからという人もいる。考えるのが快だからという人もいる。明晰でありたいからという人もいる。勝ちたいからという人もいる。負けたくないからという人もいる。執着しているからという人もいる。傷つきたくないからという人もいる。傷つきたいからという人もいる。生の実感を得たいからという人もいる。死の実感を得たいからという人もいる。よく眺めたいからという人もいる。納得したいからという人もいる。よく流れたいからという人もいる。鬱屈から解放されたいからという人もいる。他者からの要求に応えたいからという人もいる。周りが考えているからという人もいる。周りが考えていないからという人もいる。死にたいからという人もいる。生きたいからという人もいる。


 生の意味の有無について、納得すればもう苦悩しないこともある。どこかに異和感が潜んでいることもある。他の何かしらからまた疑いを与えられることもある。


 鍛錬や矯正によって強く何かに依ることで、生の意味について納得する、考えなくなることがある。それでもなお異和感が残り続けることがある。


 生の意味を求めずにはいられない状態にあるから、なおかつ生の意味を見つけられていないから、苦悩となる。生の実際が満ち足りていれば、生の意味について考える必要もない。それでもそのどうでもいいものを考えてみることができる。生の実際が満ち足りる前に生の意味について苦悩してしまった人のことを、満ち足りている現在から考えてみることができる。


 依って生きるといっても、常に依っているとは限らない。疑いがやってきたときだけ依るという仕方がある。その場合に彼が不安になるのは、依りどころが消失した後にいまいちど彼に疑いがやってきたときだ。


 ある生の意味への依りが別の生の意味へ移るとき、気づかないうちに完了することもあれば、不信感を伴うこともある。不信感のあるときには、依りの装飾が削ぎ落されて、依りの芯だけが見えやすくなることが多い。


 依りが移るのは、誘惑によって、強制によって、より深い納得によって、損得勘定によって、忘却によって、絶望によって、失望によって、希望によって、混乱によって、逃避によって、意志によって、気まぐれによって、偶然によって、いつの間にかすり替わるによって。


 納得に同じはない。生の意味について即座に納得することもあれば、長い時間をかけてなお納得しないこともある。論理に依って納得することもあれば、感覚に依って納得することもある。いかなるものも納得につながりうる。


 外観は所詮外観であって、人や生命や自然と関係する現在があってこそ、それぞれの意味に息が通る。意味だけを汲み取れば息は途切れる。


 生の意味はあるか?

 生の意味はあるに依ると、彼にとって生の意味はある。

 生の意味はないに依ると、彼にとって生の意味はない。

 考えない人には、異和感があろうがなかろうが、問いは存在しない。

 考えるが分かっていない現在には、軽重どちらかの鬱屈がある。


 何かに依って、生の意味はあるとする人がいる。

 ひとつに依って、いくつかに依って、反復して。重く依って、軽く依って。分かって、忘れて、思い出して。弱いときに依って、強いときに手放して。弱いときに手放して、強いときに依って。あるとしたいから、断定したいから、確かにあるから、なんとなく分かるから、分からないから、どっちでもいいから、生の意味はあるとする人がいる。納得できていないが生の意味はあるに依る人がいる。生の意味の明確な対象化ができている人がいれば、感覚はあっても対象化はできていない、あるいは対象化を必要としていない人がいる。

 何に依って、人は生の意味はあるとするか。

 確かな、あるいはぼんやりとした幸福の実感に依る人。確かな、あるいはぼんやりとした不幸の実感に依る人。

 自己に依る人。連続する自己に依る人。実体としての自己に依る人。現象としての自己に依る人。分散する自己に依る人。自己に依らないに依る人。自己の欲に依る人。よく食べるに依る人。健康に依る人。得に依る人。損をしたくないに依る人。所有に依る人。土地に依る人。金に依る人。性処理に依る人。役割に依る人。表現に依る人。表現の空間に依る人。表現し続けるのみに依る人。流れの継続に依る人。消費に依る人。豪奢に依る人。製造に依る人。寝るに依る人。気楽に依る人。不動に依る人。自由に依る人。限定された自由に依る人。名に依る人。名付けに込められた意味に依る人。両親や育ての親や恩人の込めた気持ちに依る人。生誕の逸話に依る人。理想に依る人。いつかくる未来に依る人。くるかどうか分からない未来に依る人。生きているうちにはこない未来に依る人。経験した過去に依る人。経験していない過去に依る人。経験に依る人。経験の蓄積に依る人。二度とない体験に依る人。反省に依る人。欲しい対象に依る人。注ぐに依る人。できることをするに依る人。発散に依る人。本能に依る人。霊感に依る人。自己像に依る人。生の像の演出に依る人。死の像の演出に依る人。生死の像の完遂に依る人。スタイルに依る人。生活術を獲得するに依る人。どんな環境でも適応できるようにするに依る人。動物としての人間を獲得するに依る人。裏に依る人。裏返しに依る人。表裏に依る人。意味の転覆に依る人。意味を遊ぶに依る人。意味を超越するに依る人。意味を再構成するに依る人。騙すに依る人。才に依る人。弱さに依る人。自己への同情に依る人。何かへの言い訳に依る人。旅に依る人。一風変わった生き方をするに依る人。生きたいに依る人。まだ生きたいに依る人。回復に依る人。死にたくないに依る人。死ぬのが恐いに依る人。死にたいに依る人。いつ死んでもいいに依る人。生き続けるのみに依る人。自己の相対的価値に依る人。自己の絶対的価値に依る人。自己の美に依る人。自己の醜に依る人。自己の成長に依る人。自己の変化に依る人。自己の老いに依る人。自己の死に依る人。自己の慰霊に依る人。勝負に依る人。勝ちに依る人。勝ちたいに依る人。負けたくないに依る人。闘争に依る人。反抗に依る人。転回に依る人。創造に依る人。攪乱に依る人。破壊に依る人。再生に依る人。維持に依る人。いつも通りの生活に依る人。楽しむに依る人。嬉しいに依る人。地に足をつけるに依る人。跳躍に依る人。浮遊に依る人。物事の理解に依る人。明晰さに依る人。上手に生きるに依る人。勢いに依る人。素朴さに依る人。安全に依る人。危険に依る人。非日常の体験に依る人。日常と非日常の反復に依る人。象徴的なものに依る人。象徴をこしらえるに依る人。音楽に依る人。祝祭に依る人。祝祭準備に依る人。労働に依る人。動けるに依る人。未分に依る人。元気に依る人。光に依る人。輝くに依る人。闇に依る人。静寂に依る人。空白に依る人。習慣に依る人。迷惑をかけないに依る人。承認に依る人。荒みに依る人。残酷さに依る人。汚れに依る人。美に依る人。ねじれに依る人。来たものに依る人。耐えるに依る人。張り裂ける感情に依る人。閉塞感に依る人。逃避に依る人。自分だけの概念に依る人。意識に依る人。ぼんやりとした感覚に依る人。はっきりとした感覚に依る人。神秘体験に依る人。一回きりの体験に依る人。超越に依る人。活動に依る人。何か残すに依る人。語り継ぐに依る人。託すに依る人。順調に依る人。こぎつけるに依る人。幸運に依る人。不運に依る人。大失策に依る人。逆転に依る人。目的に依る人。目的を過程を楽しむために措くに依る人。執着を失くしていくに依る人。中心に依る人。中心化に依る人。中心への同化に依る人。脱中心化に依る人。苦悩に生の実感を見出すに依る人。回復の経験に依る人。身体の要求に応えるに依る人。身体の本来に依る人。身体の波に依る人。身体の奇跡に依る人。生の道のりを歩みつくすに依る人。生の意味を探し続けるに依る人。死の意味を探し続けるに依る人。死の意味はないに依る人。生への畏敬に依る人。死への畏敬に依る人。

 当為観念に依る人。死んではならないに依る人。生きたいのに生きられない人がいるから生き続けなければならないに依る人。人はみな何かのために生まれてきたに依る人。隣人愛に依る人。善に依る人。悪に依る人。権力に依る人。忠誠に依る人。共同的な至高性に依る人。支配するに依る人。人の流れを制御するに依る人。与えられるに依る人。金を動かすに依る人。称えるに依る人。探究に依る人。成果に依る人。唯一に依る人。決して手に入らない概念を求めるに依る人。誇りに依る人。誇示に依る人。劣等に依る人。死の意味に依る人。死の準備に依る人。自己の墓に依る人。生死は手段に過ぎないに依る人。死後の像に依る人。死後の生に依る人。死後の無形に依る人。死後の不明に依る人。死中の感覚に依る人。死中の像に依る人。幽霊になるに依る人。把握しきれない共同体に依る人。把握しきれない共同体への貢献に依る人。時代の嵐に同化するに依る人。時代に嵐に屹立するに依る人。時代の要請に応えるに依る人。文明の移りゆく過程に依る人。逆回転を起こすに依る人。平等に依る人。平和に依る人。永遠平和に依る人。漠然としたものに依る人。漠然とした有用性に依る人。内と外の境界に依る人。敵に依る人。敵への攻撃に依る人。人類に依る人。人類への貢献に依る人。人類の存続に依る人。人類の死の依る人。人類への反発に依る人。歴史に依る人。歴史の整理に依る人。歴史のなかの位置づけに依る人。歴史の空白に依る人。痕跡に依る人。現世内の神に依る人。現世外の神に依る人。神の死に依る人。神に会うに依る人。神からの救済に依る人。神とのつながりに依る人。神からの加護に依る人。神への理解に依る人。神からの預言に依る人。神と人々を接続させるに依る人。神と人々の接続を強めるに依る人。神と人々の接続を断つに依る人。神を守るに依る人。神々の調和に依る人。神々の闘争に依る人。神々の再構成に依る人。神や神々による天地創造の再演に依る人。一連の外観に依る人。一連の問答に依る人。生の意味はあるとそのままに依る人。

 他者に依る人。他者たちに依る人。幸福を与えてくれた他者に依る人。他者との交歓に依る人。他者との相剋に依る人。他者との同一に依る人。みんな一緒に依る人。他者との差異に依る人。他者を生むに依る人。他者の存続に依る人。他者から愛されるに依る人。他者を愛するに依る人。他者を動かすに依る人。他者に動かされるに依る人。他者から求められるに依る人。他者からの見えない要求に依る人。他者と一緒に動くに依る人。他者と一緒に動かないに依る人。他者との連動に依る人。他者を起こすに依る人。他者をからかうに依る人。他者を元気づけるに依る人。他者を祝福するに依る人。他者の喜びに依る人。他者を癒すに依る人。他者を傷つけるに依る人。他者を治療するに依る人。他者の応急処置に依る人。他者の救済に依る人。他者の面倒を見るに依る人。他者の成長に依る人。他者への理解に依る人。他者への恩返しに依る人。他者への復讐に依る人。他者を見送るに依る人。他者の死に依る人。他者の亡霊に依る人。他者を慰霊することに依る人。他者の死の沈黙に依る人。他者に残されてしまったに依る人。他者の後をいずれ追うに依る人。他者を思い出すに依る人。他者を継ぐに依る人。他者との記号的同一に依る人。他者との記号的差異に依る人。他者との原的な差異に依る人。他者への反発に依る人。他者への憎しみに依る人。他者との約束に依る人。他者とのつながりに依る人。他者との固定したつながりに依る人。他者との変化するつながりに依る人。他者との一瞬のつながりに依る人。他者との直らないつながりに依る人。他者との歪んだつながりに依る人。他者の移り変わりに依る人。他者の入れ替わりに依る人。他者との縁に依る人。他者とただあるに依る人。他者と歌い続けるに依る人。生命との交感に依る人。生命への驚きに依る人。生命を頂くに依る人。生命へのありがたさに依る人。自然に依る人。自然との交感に依る人。自然に還る前の一時の姿に依る人。生命への畏敬に依る人。自然への畏敬に依る人。人と生命と自然に依る人。


 何かに依って、生の意味はないとする人がいる。

 重く依って、軽く依って。弱いときに依って、強いときに手放して。弱いときに手放して、強いときに依って。ないとしたいから、断定したいから、確かにないから、なんとなく分かるから、分からないから、どっちでもいいから、探しきったから、生の意味はないとする人がいる。納得できていないが生の意味はないに依る人がいる。


 生の意味について考えなくなった人がいる。

 考え疲れたに依って。考えるのは不毛だに依って。投げやりに依って。考えるのが恐いに依って。食っていくのに精一杯に依って。そんなこと考えても何にとっても有用でないに依って。忘却に依って。逃避に依って。代わりに他のものを疑いだすに依って。幸運に救われるのを待つに依って。生の一連の外観への理解にずらしたことに依って。生の意味について苦悩する人を眺める位置に居座ることに依って。誰かの探究の成果を理解したつもりになることに依って。誰かが解いたという事実に依って。問答の流れを覚えることに依って。解決しないと決めたに依って。生の意味の探究自体を目的にしたことに依って。未来に仮託するに依って。生の意味を否定し続けることに自閉するに依って。知には限界があるに依って。生の実際が満ち足りるようになって考える必要がなくなったに依って。生の意味の有無について納得しないことに納得するに依って。


 生の意味を考えるが分かっていない人がいる。

 どこかに流れ出すことができずにいる人がいる。ほんの一瞬だけせき止められている人には軽い靄がある。しばらく押し付けられている人には重苦しい靄がある。耐え難くなれば考えるということすらうまくいかなくなっていく。分からないが充満していく。はっきりしない形で流れ出してしまうこともある。


 自死する人がいる。

 死に恐怖しながら自死する人がいる。死への恐怖から解放されて自死する人がいる。

 何によって、人は自死するか。

有用性によって。有用性から解放されたいによって。強制によって。命令によって。期待によって。要求によって。要求からの解放されたいによって。いじめからの解放されたいによって。虐待からの解放されたいによって。役目を果たせないによって。役割から解放されたいによって。自責によって。迷惑をかけたくないによって。裏切りによって。つながりの痛みによって。つながりの歪みによって。思い通りにつながれないによって。肯定的につながれないによって。つながりが断たれたことによって。つながりを回復したいによって。つながりを真実にしたいによって。つながりを至高なものにしたいによって。他者を所有したいから一緒に死ぬによって。他者の自死に付き添うによって。他者の死に感応するによって。他者に打撃を与えたいによって。他者に直らない傷をつけたいによって。他者から忘れられたくないによって。他者を傷つけたくないによって。他者を守りたいによって。他者を残したいによって。他者の面倒を見切れないによって。生きる意味の源泉であった他者の死によって。半身であった他者の死によって。他者の死を追うによって。死者たちの輪に入りたいによって。共同体によって。集団的同調によって。死の交換によって。神によって。存在の否定によって。自己の痕跡を残したいによって。不幸によって。思い詰めるによって。信念によって。金がないによって。飯がないによって。飢えによって。飢えたくないによって。これ以上傷つきたくないによって。痛みを避けたいによって。慢性的な痛みからの解放されたいによって。耐えがたい痛みからの解放されたいによって。衰弱を避けたいによって。一か八かによって。死への恐怖から解放されたいによって。臨死の体験によって。生も死も変わらないによって。生死の賭けによって。現実感の欠如によって。現実感の過剰によって。物事が複雑になりすぎたによって。恥の意識によって。自己あるいは声による自己への復讐によって。人を殺したことの反射によって。いくらかの償いによって。罪の意識によって。好転する兆しが見えないによって。待ちきれないによって。希望を失ったによって。夢がないによって。注ぐものがないによって。何かに決めてもらうことができないによって。孤独からの解放によって。承認が足りないによって。誤解によって。尊厳を守りたいによって。働きたくないによって。疲れたによって。殺されたくないによって。深く死にたいによって。殺したくないによって。辛いによって。苦しいによって。再び苦しみたくないによって。沈みこむによって。起きたくても起き上がれないによって。絶望によって。不条理によって。不安によって。危険によって。めんどくさいによって。嫌になったによって。考えたくないによって。何もしたくないによって。特になにも起きないによって。唐突な強迫観念によって。うんざりによって。不毛によって。あのとき死ぬべきだったによって。こんなに生きるつもりじゃなかったによって。生きるのに飽きたによって。充分生きたによって。どうしたって人は滅ぶによって。生の意味はあるによって。生の意味はないによって。死の意味はあるによって。死の意味はないによって。生死を手段にすることによって。死を目的とすることによって。死の感覚によって。意味から逃れられないによって。意味が集まってくることから解放されたいによって。意味との離別によって。意味を最後にするによって。死の可能性に誘惑されるによって。死の欲動によって。本能によって。死の像への同化によって。死後の像への同化によって。生死の像の完遂するによって。非合理なものによって。導かれるによって。何も依りたくないによって。一つになりたいによって。解放されたいによって。還りたいによって。洗浄によって。美によって。満足によって。偶然によって。気まぐれによって。幸福によって。恍惚によって。語りえないものによって。肯定的なものによって。今死んでもいいによって。不信感によって。


 生きなければならないと自分を追い詰める人がいる。生きなくてもいいと超越する人もいる。

 生きなければならないのに、生きられない人がいる。

 生きなければならないのに、自死する人がいる。

 生きなければならないうえに、自死できない人がいる。

 生きなければならないから、生きる人がいる。

 生きなくてもいいが、生きられない人がいる。

 生きなくてもいいから、自死する人がいる。

 生きなくてもいいが、自死できない人がいる。

 生きなくてもいいが、生きる人がいる。


 死ななければならないと自分を追い詰める人がいる。死ななくてもいいと超越する人がいる。

 死ななければならないから、自死する人がいる。

 死ななければならないのに、自死できない人がいる。

 死ななければならないうえに、生きられない人がいる。

 死ななければならないのに、生きる人がいる。

 死ななくてもいいが、自死する人がいる。

 死ななくてもいいうえに、自死できない人がいる。

 死ななくてもいいのに、生きられない人がいる。

 死ななくてもいいうえに、生きる人がいる。

 

 生の意味の有無に依らなければならないと自分を追い詰める人がいる。生の意味の有無に依らなくてもいいと超越する人がいる。

 依らなければならないから、依る人がいる。

 依らなければならないが、依れない人がいる。

 依らなければならないが、依らない人がいる。

 依らなくてもいいから、依らない人がいる。

 依らなくてもいいうえに、依れない人がいる。

 依らなくてもいいが、依る人がいる。


 依っても依らなくてもいいという感覚は、依ることも依らないこともできる人のものだ。


 依らずにはいられないにしても、それしか依れないか、それ以外にも依れるか、の違いがある。それしか依れない人には、それ以外にも依れる人の言葉は軽く聞こえるかもしれないし、脱皮が魅力的に映るかもしれない。それ以外にも依れる人には、それしか依れない人の言葉は狭苦しく聞こえるかもしれないし、不動ぶりが魅力的に映るかもしれない。ただひとつのものに依っている限り、彼が相手の依っている別のところに一応依ってみるというのは、自己を忘れなければ不可能であるはずだ。しかし原的な感応によって相手の依っている感覚に近づくことはありうる。


 相手の依っている以上に、その対象に依ってしまえる人がいる。しかしそれらの依りが同一であるか、対象が同一であるかは、何に依るかによる。


 生の意味はあるに依ってのみ生は可能である、というわけではない。生の意味に依らない人間は意味に依る人間よりは早く衰弱するかもしれないし、そうとも限らない。生の意味はないに依る人間も、しかし充満している生を往くかもしれないし、ニヒリズムに苛まれながら往くかもしれないし、いっそ自死するかもしれない。


 これこそ生の意味だと納得した人も、まったく別の生の意味に涙することがある。生の意味に納得したうえで、生の意味の外部の存在であったはずの他者を咄嗟に命がけで救おうとしてしまうことがある。そこから生の意味が再措定されることはあるが、意味は意味の次元のものだ。

 意味が現実の感覚そのものを変えることはあっても、生の意味を考えるに先立ってまず現実の関係が存在する。


 抽象も感覚を伴う限り具体だ。問題なのは彼が何を具体のものとして、感覚のものとして、生の意味に実存的に関わってくるものとして、概念に依り、扱うかということだ。

 抽象的に考えられないから生の意味に納得しえないということではない。むしろ問題を抽象化していくことで感覚から離れてしまうと、感覚による解決への道から浮遊してしまう。そして納得は感覚のもの。


 生の意味はないに依るのと、生の意味はないにも依らないのは違う。無信仰に依るのと、無信仰にも依らないのは違うように。


 生の意味についての疑いからの逃避のために、死や死への恐怖に依る人がいる。


 生の意味が獲得できないときの行き場の分からない鬱屈、それを空虚と呼びたがる人は、空虚に依って救われようとしている。


 一連の外観、あるいは問答の流れ自体、あるいは他者から与えられた意味の輪郭、そういったことに依ることに納得する人は、その一語一語が忘れられるたびに不安定になるかもしれない。まず自力で問答していく力を失ってしまっている。


 言葉や知に限界があるに依ったとしても、なお生の意味についての問いに答えるために言葉を使い、考えるという人がいる。言葉や知に限界があっても、そのために問いに答えられないとは限らないからだ。限界までは考えられるからだ。


 生の意味への依りは、生を何かしらの可能性へと開かせるものであると同時に、生を何かしらの限定のうちへと押し込めるものでもある。そのなかでは、意味に依らないことによる語りえないひろさのようなものが殺されてしまう。あるいは、そういった非合理なものはときに意味によって限定された器に溢れて、生の実際を別のものへと変えてしまう。それは偶然の訪れによるか、意味を忘れてしまったによるか、意味を落とさざるをえない事態に見舞われたによるか、非合理まで意識的にやるかによって、現在のものとなる。


 意味を転覆するに依るのは意味を転覆するという意味に依っている。意味を遊ぶに依るのは意味を遊ぶという意味に依っている。彼は意味に対していくらか自由であっても、意味のゲームを超越しても、意味への依りを超越していない。


 意味を超えて生きるとか、意味を流して生きるとか、意味に依らない現在に到るとか、それは意味を捉えつつそこだけ掴まないようにするという依りに依っている。意味の外まで意味に依るという別の目的のために有効な方法だ。


 感情や意識や感覚の一切は、何かに依っているがために起こる。それを突き詰めることができる。何への依りを断てば、あるいは変えれば、その感情なり意識なり感覚なりが終わり、再び起きないようになるか、突き詰めることができる。逆に起こし、強めることもできる。


 一切は絶えず流動している。

 対象化作用は輪郭を求める。生の意味を輪郭にして固定化して、依る。しかし一切は流動している。だから生の意味について、これだと思ってもすぐに、あるいはゆっくりとずれていく。疑いがやってきて、もっと強く固定するか、もっと強く依る必要に迫られる。輪郭を補強するために、別の輪郭を持ち出し、固めるかもしれない。その輪郭の内側でのみ、彼は支えられる。

 輪郭を強めていく、補強していくことに嫌気がさすと、今度は漠然とした輪郭、変わりゆく輪郭に依るという方法を生み出す。あるいは流動し続けるに依るという方法を生み出す。これはより感覚的なことであり、そのために感覚の訓育や馴致を行う必要もある。


 輪郭に依る通交は断絶を呼ぶ。その限定化された通交に依るほど、他の通交方法、あるいは原的な通交状態ができにくくなるか思い出せなくなる。


 輪郭に依った限定的な通交を感覚する人は、その固定性によって鬱滞させられるために、輪郭を変えて通交の感覚を変えたり、他の限定化された通交や原的な通交を求めるようになる。


 通交のために輪郭を持つはずだったのに、輪郭を持てばその輪郭でもって通交したくなる、と転倒することがある。輪郭に依った通交に慣れると、その限定化された通交でしか通交できなくなり、そしてその通交が感覚されないと断絶状態となって、通交を求めるようになる。輪郭が現れれば通交を求めるという流れが起きる。しかし既に通交しているのを感覚しながら、原的な通交を感覚しながら、輪郭に依った限定的な通交と断絶をも感覚することもできる。


 何かに向かって注ぐとき、自らが流れようとしている。


 それに依れば、そう流れていく。流れは導かれる。流れは嵌まる。流れは外れる。流れは求める。流れは押される。流れは誘われる。流れは逆流する。流れは合わさる。流れは散開する。流れは流れを生む。流れは淀む。流れは透ける。流れは強まる。流れは弱まる。流れは静止する。流れはなくなる。流れは流れる。それに依れば、そう流れていく。


 こう依って生き死ぬ人がいる。

 一切のことは業報にさしまかせるに依って生き死ぬ人。

 生死は別ではないに依って生き死ぬ人。

 何も依らないに依って生き死ぬ人。

 ただある、ただ起こるに依って生き死ぬ人。

 際限のないひとつに依って生き死ぬ人。

 流動し続けるに依って生き死ぬ人。

 自己が動けば一切が動くに依って生き死ぬ人。

 気まぐれに依って生き死ぬ人。

 道に依って生き死ぬ人。

 それが来ているうちはそれに依って生き死ぬ人。

 語りえないものに依って生き死ぬ人。

 日の光に依って生き死ぬ人。

 鳥が鳴くに依って生き死ぬ人。

 風に依って生き死ぬ人。

 声に依って生き死ぬ人。

 愛に依って生き死ぬ人。

 波に依って生き死ぬ人。

 山に依って生き死ぬ人。

 海に依って生き死ぬ人。

 大地に依って生き死ぬ人。

 恍惚の体験に依って生き死ぬ人。

 溶融の体験に依って生き死ぬ人。

 自己の供儀に依って生き死ぬ人。

 今死んでもいいの体験に依って生き死ぬ人。

 永遠回帰に依って生き死ぬ人。

 時間を超えるに依って生き死ぬ人。

 世界は実体がない、実体がないものこそ世界の反転に依って生き死ぬ人。

 此岸と彼岸の往還に依って生き死ぬ人。

 此岸と彼岸の同一に依って生き死ぬ人。

 一切は絶えず死に絶えず生まれているに依って生き死ぬ人。

 一切の慰霊に依って生き死ぬ人。

 一切の連動に依って生き死ぬ人。

 一切の通交に依って生き死ぬ人。

 すでに通じているに依って生き死ぬ人。

 すでに完遂されているのうえでなお作為するに依って生き死ぬ人。

 すでに伝わっているのうえでなお伝えようとするに依って生き死ぬ人。

 肯定への意志に依って生き死ぬ人。

 微笑むを微笑むに依って生き死ぬ人。

 禅定に依って生き死ぬ人。


 こう依る人がいる。

 依らないまで依る人。

 不信ただなかまで依る人。

 

 依らない人がいる。


 依ることや依らないことに不信する人がいる。


 不信ただなかにある人がいる。




問答における論理について


 対象は語りうるか?

 対象は語りうるかという対象は語りうるかという対象は——

 同一の言明は同一の内容を指示しうるか?

 同一の言明は同一の内容を指示しうるかという言明は同一の内容を指示しうるかという言明は同一の——

 言葉は存在するか?

 言葉は存在するかという言葉は存在するかという言葉は——

 問答は成立しうるか?

 問答は成立しうるかという問答は成立しうるかという問答は——

 思考は依りであるか?

 思考は依りであるかという思考は依りであるかという思考は——

 これは問答が終わらないのでもなく、終わるかどうかも分からないのでもなく、問い続ける現在がただあるだけだ。それはどこかで終わるのかもしれない。無限に続くことを証明するにしても、どこかで終わることを証明するにしても、それはこの現在の外部の話に過ぎない。語りうるとか語りえないとか指示しうるとか指示しえないとか、そういった断定へ依らなかった後に依ってしまうものとして、終わらないとか分からないと断定してしまう。

 ただし、これは問答の不備の指摘のために整理された形なのであって、対象は語りうるかという対象、の後ろの対象化作用が行われる必然性が証明の流れのうちにあるかどうかは、何に依るかによる。

 すべての証明に必要な手段の正当性についての証明は、その手段の利用なくしてありえない。先に正当であるとしなければ、証明は進行しえない。正当でないとすれば、その証明は正当でない手段によって行われているという点において矛盾している。一切の証明の不可能性が証明されたとなると、ではその証明はなんなのか、ということになる。


 対象は語りうるか? 同一の言明は同一の内容を指示しうるか? 問答は成立しうるか? この問いを答えるためには問い続ける現在がただあるばかりだ。

 いかなる問答においても、対象について語りえているのでなければ、何も語っていないことになる。いかなる問答においても、同一の言明が同一の内容を指示できているのでなければ、同一のものを語ってはいないことになる。いかなる問答においても、問答が成立できているのでなければ、問答は成立していないことになる。

 生の意味についての問答において、対象について語りえているのでなければ、何も語ってはいないことになる。同一の言明が同一の内容を指示できているのでなければ、同一のものを語ってはいないことになる。問答が成立できているのでなければ、問答は成立していないことになる。しかしそれを確かめようとすれば、問い続ける現在がただあるか、いつかどこかで終わるそのときまで続けるほかない。




問答における依りについて


 生の意味はあるか? という問いにおいて、あるかないかの思索を依りの問題へと移すとき、それが正当であるかどうかは、彼の感覚による。また、問答について、依りの問題へと移して思索するとき、それが正当であるかどうかは、彼の感覚による。依る依らないということが、彼にとって実際の流れの外側のものに過ぎず、感覚されえないのなら、依ることの感覚についての思索は彼を納得へと導かない。

 感覚をもって実証とするとき、それが正当であるかどうかは、何に依るかによる。彼の感覚をもって彼にとっての実証とするとき、それが反証に開かれているかどうかは、彼の感覚と意識による。

 そのうえで依りの問題を扱う。つまり、感覚の話をする。ここからは、それは依りである、知と感覚は一体でありうる、と訓練したうえでの話に過ぎない。


 対象が語りえるものだろうが語りえないものだろうが、問答の進行や現実上の進行に何ら問題がないという事実性がある。問答の実効性が証明されようがされまいが、現実上の進行に何ら問題がないという事実性がある。疑い以前には自明に進行していく事実性が、疑い以後にはそれはどうやら進行していくようだという対自化された事実性がある。

 問答が欠陥を抱えていたり、ごまかしをしていたところで、現実の進行に何ら影響を与えないという事実性がある。その欠陥やごまかしの暴露が現実上の進行に影響を与えるとすれば、その暴露や暴露の結果おとずれた異和感が、現実のほうを変えてしまうとき。問答の実効性や現実をいま疑いにかけ、不信させるとき。現実における依り、現実という依りの輪郭を浮き出させ、それが依りであるという現実を創ってしまうとき。つまり、ひとつの依りに過ぎない別のそれへと移らせるとき。


 対象は語りうるか? 同一の言明は同一の内容を指示しうるか? の疑いは、人によってはつかえとして残り、人によってはまったく残らない。


 疑いが実存にかかわるのは価値意識を揺らすとき。価値意識を揺さぶらない疑いは作業に過ぎない。

 

 問い続ける現在がただあるという問答の対自化。対象は語りえているという事実性への依り、語りえるとしてという暫定への依り、この依りによって、対自化された問答はなお成立していく。あるいは対象は語りうるかという疑いを不問にするか、忘却するかして、問答はなお実際に成立する。


 問いを聞いて、問いへの解答を探るに乗るか乗らないかの、意識的な区切りのある選択あるいは区切りの淡い選択がある。問わない選択をしても、一度問いを聞いてしまったら彼にわだかまりとして残る、というのが真であるかどうかは何に依るかによる。つまり一度聞いても自明的な感覚に戻れるかどうか、前後の感覚が同一であるかどうかは何に依るかによる。

 乗るか乗らないかの判断過程での鬱滞が長かったり集注が強ければ、残りやすいと言えるだろう。乗って中断し忘却するときも、鬱滞の度合いが強ければ残りやすく、それが異和感になることもあるだろう。


 気づきが気づいた人に与える影響の実質は、彼に委ねられている。


 問い続ける現在がただあるだとか、問答の不備だとかは、ただそうであるだけで、それが現実なり秩序の穴であるとか、根源的な何かであるとか、そんなことはどうでもよい。そうであるとかそうではないという断定も依りに過ぎない。そう依りたければそうすればいいというだけの話だ。ここで問題となるのは、それが生の意味、そして生の意味についての問答にどう関わってくるかという点において。


 問い続ける現在がただある——の中断は、集注を終わらせるか、まったく違うことへの依りによってもたらされる。中断を問答の終わりとするかどうかは何に依るかによる。依り続ける限り、問い続ける現在がただあるかもしれないし、どこかで終わるかもしれない。


 生の意味についての問いと答えと疑いと納得は、生とそれ以外、意味とそれ以外、生の意味とそれ以外、さらに言えば生とそれ以外とそれ以外と続いていくものと、そして無という対象、言葉に依る。


 あるに依っているとか、ないに依っているとか、そういった言明も依りあるいは忘却の上で流れている。あるとかないにそのまま依るか、あるとかないについての証明の正しさに依るか、証明を経てあるとかないにそのまま依るか。


 仮に話を単純化して、言語の使用がある共同生活のうちでの訓練によってのみ可能になるとしても、人は共同体をまたぐことによって少なくともそのいくつかの共同体とは別の視座を獲得することがあり、自らの概念をつくり定義を変え見えなかったものを見るようになる。彼に意味を教えられた人はその二人の共同性によって言語を獲得したといえるが、その言語の使用は別の共同体へ入るときにも、通じないにせよ自らの視座を保持するのに有効なものとなり、次第にその人独自の言語理解が進むようになる。それさえ類似が見出されることはあっても、そのような類似に甘んじることなく自らの言語の使用にこだわるなら、彼の中ではその言語理解は共同体の別の人のそれを超えている。その人が個人であるとかある時点での自己であるとかその連なりであるとか共同体の成員であるとかそのどちらでもない未分な存在であるとかは何に依るかによる。

 言語の規則や感覚の実質は共同生活から始まったのだから、そこや代わりとなる共同体にこそ生の意味がある、とは限らない。何が共同体であるかは何に依るかによるけれども。ただし共同体における関係において感覚の実質を確かめたり、自らの言語規則を関係のうちで放棄したり中和させることで、生の意味について考えなくなることはよくある話だ。


 言語が対象、対象との距離、対象の使用方法、を明確にするように発達してきたのなら、言語の規則や言語を通しての感覚がまったく恣意的なものであるとは限らない。言語を通して溢出し受入する流れのようなものは、普遍的であるかもしれない。そもそも感覚に同じはないとすることもできるし、そのうえで類似を考えることもできる。


 言語が対象それ自体を、ものそれ自体を、対象以上のもの、以下のもの、以外のもの、にするかどうかは何に依るかによる。仮に以上のもの、以下のもの、以外のものにするにしてもしないにしても、現実上の進行にそれが関わるのは、その把握を通して対象の関係が変わるとか、現実それ自体の感覚が変わるときの話だ。


 意味の連続や断続がひとつの意味として新しくとらえられるかどうかは、連続する像の流動や転変を感覚できるかによる。像が視像であるとは限らない。いかなる像の流動なり転変も、想起されている限り現在でありうる。


 流れる現在として、あるいは現在を流すものとして、意味を捉えるなら、意味ごとに現在でありうる。意味作用も同じ。何を現在であるとするかは何に依るかによるけれど。

 いかなる意味も現在でありうるとしたところで、現実においては何が現在であるか優位的に決定していく何かしらがあるのが常だ。その何かしらによって、人は嘘だとか本当だとかを判断していく。これを対自化できればいくらかは眺望のよい視座に着けるが、それはその後を楽にするとは限らない。他者は依然として嘘だとか本当だとか言ってくるだろうから。


 言葉に限界があるといってしまうのは、そう依ったからに過ぎない。意味ごとに感覚でありうるとするなら、そう依りさえできれば言葉に限界がないという感覚はありうる。


 対象化作用、措定作用、思索は現在の流れのものであるので、滞ると現在がうまく流れず困ってしまう。また鬱滞をもたらすとしても、疑いはまず流れとしてある。


 思考には行きたい方向がある。柔軟になりたい、うねりたい、鬱滞をよく流したい。つかえとして思考がある限り、身体的な要求としてそのような解放の欲がやってくる。つかえつつ流動することも快でありうる。


 問いや答えや疑いや納得が何かに依らなければ成立しないのなら、その過程を踏むほど、彼は問答や疑いにおいて依るほうへと向かいやすくなる。問答や疑いは彼を依るほうへと向かわせがちだ。


 思索そのものを目的としていれば、分かって解放されたいという欲はないか、副次的なものとなる。


 言葉や意味が、それに依る彼に離れても存在するかどうかは、何に依るかによる。言葉は存在するか? 意味は存在するか? 問い続ける現在がただ続いていく問い。


 同一か差異か、先か後か、分類と差異どちらが先か後か同時か、そういったことは何に依るかによる。こういうふうに何に依るかによるで終わらせていると、依ったうえでの思索、有用性への還元がまったくできなくなる。

 何に依るかによるという発想は、たとえば万物の始原は水だに依れば、存在の移り変わりは海の原に等しい、だから何に執着してもいつかは海に還る、のように意味なり解釈なりが実際に進行していく限りにおいて、有用なものとなる。何に依るかによるへの自閉は、たとえば万物の始原が何であるかは何に依るかによるに依る、のように理解が他に進行していかない現在にとってのみ、有用なものとなる。つまりその自閉は、他の流れにとって何ら有用ではない。何に依るかによるは、ひとつの解答であり、ひとつの解答でしかない。しかしひとつの解放ではありうる。そう依ればそう流れるという視座につながる解放。


 一切の存在には実体がないという感覚は、存在するものの関係を総体的に把握しようとするとき、あるいは存在そのものを疑うとき、導き出されるひとつの流れ。よく流れていたいからそう導き出されたか、導き出されたからよく流れるようになったかは、彼の思索の実際による。

 一切の存在には実体がない、そう依ればそう観える、そう感覚される。その依りに執着する理由は、彼の感覚が知る。

 ひとつ特筆できることがある。一切の存在には実体がないという実感においては、存在に依ることができなくなるか、あるいは存在に依るとしてもその実質が薄くなったり無になったりするということ。存在へ依り続けようとしなくなり、依りを簡単に切れるようになるということ。彼は代わりに存在の移り変わりに依るかもしれないし、それも実体ではないと感覚するかもしれない。つまり感覚の実際が変わる。


 全であるものと全であるものは比較できない。無であるものと無であるものは比較できない。一方の限定を通してのみ比較できる。比較するとき、二つに同質のものがなければならないとか、実はひとつのものしか見ていないとか、そういうのは何に依るかによるし、比較作業に関わったり、別の問題を解決してしまう限りにおいて、そういった思索は有用だろう。


 原因について考える現在、そのとき現れる意味という現在、他の流れが刺激されるという現在以外、原因は現在を呼ばない。原因を知ったところで現在は現在のままだ。ただある現在なら原因と現在が一致しているだろうか? 何に依るかによること。


 考えるほど、考えられる領域は拡がるが、その中に閉じ込められてもいく。考えるほど、彼に考えることを許している、考えさせている環境にますます依っていくことになる。抜け出す知もある。


 対象をもつとは依るということだが、その依りもまた一切でもあって、現在のものでもある。そして一切と無を対象とすることもできる。何が一切かは何に依るかによるが、感覚としての一切の話。


 疑われる対象は疑われる分だけはっきりしていなければならない。疑うためには疑われる対象がそれだけ強くあらねばならない。対象がなければ疑いも納得もない。


 対象が力を強めるのは、気になって仕方がないからということのほかに、他の対象が減衰していく、死んでいくためにそうなるということがある。


 対象は反発として、矛盾として、凝りとしてある。また言語化以前にも対象は緊張を伴ってやってくる。言語化しない限り対象はないというのは、動物としての人間を忘れているからか? 何に依るかによることでしかない。彼自身の実感によることでしかない。


 疑うことを阻まれていれば、問答は起きない。


 疑いは依り先の関係あるいは依りそのものを解体しつつ、まだ未確定である別の依り先の関係あるいは依りそれ自体を、強めたり、弱めたり、伸ばしたり、縮めたり、拡げたり、狭めたり、捻ったり、裏返したり、ちぎったり、つなげたりしていく。他のものを巻き込んだりしながら。


 同一の言明の問いも、彼が何に依っているかによって、その実質が変わる。問いはその都度、違って感覚されうる。疑いにもいくつもの依りがある。そのうえでのみ、疑うことができる。


 同一言明は同一内容を指すという訓練が一般的に行われるとき、同一人物による同一言明は同一内容を指すという前提もまた訓練されがちだ。彼が言ったから価値があるというよくあるあれだ。このとき、自己という同一人物における内声的な同一言明は同一内容を指すという前提が刷り込まれやすい。自己同一性のあやしさとか感覚はみな一度きりといった依りは、こうしていくらかの訓練を通さなければ感覚しづらいものとなる。


 問答の前提を疑う人にとって問答は無効だが、異和感が払拭されるとは限らない。


 分かるとか、納得するということの感覚。疑いが解けるというのは、まず転変する快でありうる。狭いがひろいになる。抑えつけがなくなる。つかえが取れて、よく流れる。意味作用は何かにとっての可能性だが、意味作用に依る以上、つかえが来る。よく通し、あるいは通せるようにするために、考え、悩む。


 納得して解放されないということはありうる。問答の過程や終わりにおいて別の疑いが起こったとき、そもそも別の疑いに対しての手段として問答されていたときなど。


 分かりたい、納得したいのは、再びつながりたかったり、新しくつながりたいから、かもしれない。


 安全にしたい、使えるようにしたい、所有したい、再びつながりたい、新しくつながりたい。だから疑うとしたら、全て安全で、使えて、所有していて、つながっていたら、疑わなくなるのだろうか? 全なるもの、無への疑いを除けばそうだろう。


 いかなるものも納得につながりうる。そのひとつの理由として、いかなるものも全なるもの、あるいは無と関係するから。またひとつの理由として、いかなる意味も現在性そのものでありえるから。いかなるものも混ざり合って再構成され、別の意味となることがありうるから。


 その説明が正しいとしても、納得をもたらさないのなら、結末ではない。証明できたら納得できるとは限らない。納得を結末とするなら、そして問答が納得をもたらさないのなら、問答でない仕方に依る他ない。かもしれないというあいまいな答えすら、はっきりとした納得をもたらしうる。問いに対して、問いに依らずに言動して、納得させてしまうこともある。

 問答は納得に導くための方法のひとつに過ぎない。しかし方法のひとつとしては力を持っている。

 納得は体験のものであるから、非論理的に起こっても不思議ではない。疑いも思考も対象化作用もまず感覚であるから、感覚によって納得がもたらされても不思議ではない。だから感覚の死は、それを納得と呼ぶかどうかはともかく、疑いを終わらせる。再び感覚が起きなければ、疑いも起きない。人間の死についても同じ。


 問い即納得ということもある。すでに彼のなかで納得のための要素が揃っていたということであり、問いがそれをつなげて流したということだ。


 問答は必ず何かしらの限定を通しての問答だ。どこか矯正的であり、問答も問答らしくあらねばならないということ。もちろん納得を導くために、問答らしくない問答や、もっともらしい流れから外れた問答を使うという手段は有効でありうる。


 答えは問いを明確に立てたうえでやってくることもあれば、問いを意識しなくなった後に急に連鎖するようにやってくることもある。しかし連鎖する場合でも、納得に到るのは、再び問いに依ってこそ。


 納得という概念への疑いが解けるのは何かしらの方法で納得できたからだが、概念のほうが意味作用の次元のもので、納得するのほうが感覚の次元のものであるので、矛盾しない。ただし概念を使ったいかなる思索も、人間の身体に依って起こっている限り、それは感覚の次元のものである。


 納得を欲しているから納得をあきらめる、納得しないことに納得するという発想が生まれる。それで解けるなら、やはり納得できていると言えるだろう。何に依るかによるけれど。


 納得できたうえで今一度問うこともできる。


 依りが感覚を超えた何かでもあるなら、感覚への還元は問題を限定してしまう。しかしその感覚を超えた何かを認め、そこに解決策を求めるとき、それは感覚による納得をあきらめるということを意味する。そうなったらいったい何が納得すると言うのだろうか?


 依らなければ語ることすらできない。考えることすらできない。

 しかし、これはそう依ったからそう観える話に過ぎない。


 訓練のうえでの話に過ぎない。

 一切の問いは何かに依ったうえでなされる。

 一切の問いに対する答えは、何かに依ったうえでなされる。

 一切の疑いは何かに依ったうえでなされる。

 一切の納得は何かに依ったうえでなされる。


 生の意味についての問いは、何かに依ったうえでなされる。

 生の意味についての問いに対する答えは、何かに依ったうえでなされる。

 生の意味についての疑いは、何かに依ったうえでなされる。

 生の意味についての納得は、何かに依ったうえでなされる。

 感覚の話に過ぎない。


 何かに依ることでしか、生の意味に納得することはできないと分かったうえで、依ることができる。依ってもいい。依るなら、現在の感覚の回復への依りが、早々に意味を超える。意味を求めず、意味を求める流れを断ち、感覚を取り戻せば、苦悩は去る。


 依らずして生の意味について解決することがありうるかどうか。依らない彼だけが知る。




不信ただなか


 依ること自体に不信感が起こった場合の話。


 不信感が万遍化すると不信ただなか。


 不信ただなかにおいては、依ることが不信され、依らないことが不信され、行き先が不信され、流れることが不信され、思索や決定や納得や解決や救済や意味や感覚が不信され、不信感に依ることが不信される。


 不信感に何を期待しても、それは不信感次第だ。


 不信感は言語的倒錯をもたらす。


 不信感の初期段階においては、意志に依って振り払えることがある。しかし最低まで落ちようとしているときに当為づけば憂鬱になるように、不信感がもう万遍化していってるときに抵抗すれば、方向の分からない乱れた流れ、不安に心が裂けそうになる状態へと到ってしまう。不信ただなかにおける抵抗は不安をもたらす。


 小さな不信感ですら、万遍化しうる。


 不信感はここのものであって、ここに対してあるのではない。


 不信感についての語りは、外観的になるより他ない。


 まったく信じたり、まったく疑うのは楽だが、不信感は楽ではない。


 不信ただなかにおいては、いかなる準備もここに書かれたことも不信される。不信ただなかに任せると言っても、それさえ不信される。それでよい。

 

 依っていたものの消滅、依っているものへの疑い、複数の依りの間での混乱、意味への疑い、こういったことが不信感のきっかけとなる。特に当為観念を自らに強く課してついていけなくなったとき、当為観念たちが錯綜するとき、不信感が万遍化しやすい。


 不信ただなかは、不信感が強まってやってくるのかもしれないし、不信感に任せてやってくるのかもしれないし、そうではないかもしれない。不信ただなかが起こるのは、不信感が万遍化するのは、偶然による。不信感の生起も、偶然の側にあると言ったほうが感覚の実際に近い。


 疑いが期せずして価値意識を揺らしたのか、価値意識を揺らすために疑ったのか、不信ただなかにとってはどちらでもよい。


 疑いから不信感が起こったとしても、不信ただなかは疑いではない。疑いが納得したい、つながり直したい、新しくつながりたい、所有したい、よく流れたいという方向をもつのに対して、不信ただなかはあらゆる依りへの不信感であって、そういった方向も流れも不信していく。


 納得することも不信される。納得しないことも不信される。


 不信ただなかが依っているほかの道と比べて、正道であるとか逃避であるとか寄り道であるとか、そういったことは何に依るかによるし、どうでもよい。


 不信ただなかは禅定の原型であるかもしれない。しかし禅定への依りも不信される。禅定は積極的に今ある依りと誘惑を断つ。不信ただなかでは依りが不信される。


 像への不信感。像の消失。


 死ぬ死なないの定義も何に依るかによるが、不信ただなかにおいて、あるいはその後、生きている保証はどこにもない。ただしそれはすべての体験に言えることでもある。死にやすいかどうかが問われるが、それは体験者次第だ。


 死への恐怖が不信感と混ざることはあるが、死への恐怖がなくとも不信感は起こる。不信ただなかに到る。


 死への恐怖は、恍惚や溶融の体験、今死んでもいいの体験において消滅するが、不信感はそういった体験とは別に起こる。此岸と彼岸の往還や、此岸が彼岸と同一する現在に依る人こそ、依ることへの不信感を起こしやすい。依ると依らないをよく反復したり、自在に操ろうとしたりすることが、依ることへの不信感を起こすことがある。彼岸の体験の後、此岸に往ける保証はない。此岸に往くために意味を取り戻すか構成するときに依れなくなったり、依ることへの不信感を起こすことがある。彼岸に往くために意味を用いるときに依れなくなったり、依ることのへの不信感を起こすことがある。


 意味を求めずにはいられない、けれども意味が確かなものとしてそこにないとき、不信感がやってくる。それなら意味だけでない感覚を回復すれば、つまり現在性を回復すれば済むこともある。

 しかし、不信感は意味を求めているわけではないときにもやってくる。そのとき感覚があっても、不信感がある。依るということは、意味にだけ関係しているわけではないからだ。

 生の意味についての探究だけが不信感を起こさせるのではない。


 意味を求めずにはいられない自己の機制を対自化するのはまず依りであり、対自化できたのちに現在性を回復しようとするのも依りだ。依りへの不信感はそういった知や実践にも及ぶ。


 理性の限界を知った後、なお理性に依って感覚や信仰に依るか、依ることへの不信感が万遍化するか。その先の結果は彼だけが知る。


 祝祭なり彼岸なり、至高体験への意志、体験の現在が、不信感の払拭のために勢いづくことはありうる。


 不信ただなかまで、意識を使ってもよい。不信感に二回目があるかどうか、一回きりであるかどうかは何に依るかによるに任せて、このように意識をそう使えるようになるのは二回目からだ。不信感まで依る、この発想は二回目以降のものだ。


 不信ただなかが終わった後も、疑いがある限り、生の意味を求める限り、依りに不信する限り、再び不信ただなかがやってくるのだろうか? それは彼の感覚だけが知る。不信感は起こるかもしれない。起こらないかもしれない。何かに依ることで二度と不信感を起こさないかもしれない。


 考えたいときに考えればいい。疑いたいときに疑えばいい。不信ただなかの後、不信感を起こしたくなければ、知への依りを弛め、頭への緊張を弛め、感覚を取り戻せばいい。


 何を言っても依りでしかないが、このようにすればいい。

 胸の不信感に任せる。

 抵抗しない。

 不信感だけ。

 どうなってもいい。

 先はどうでもいい。


 不信ただなか。


 生の意味は空、と歌う人がいる。




夂歌


海を舟で渡る人がいる

その舟はすでにあったものかもしれないし、彼が造ったものかもしれない

舟が駄目になったら、もっと大きい舟に乗ったり、帆をつけたり

揺れは小さくなったが、外は見づらくなった

似た舟に乗る人もいれば、同じほうに進んでいく舟もある、まったく違うほうに進んでいく舟もある

舟がつながれたり、衝突することも

舟はいつかは壊れるし、海が荒れれば転覆する

その前に舟の上で力尽きてしまうかもしれない

舟は海より大きくなることはない

舟の中からは、海は眺めることしかできない


海を泳ぐ人がいる

自分の身体こそ頼れるものだと、たくさん鍛え、いろんな泳ぎ方を覚えていく

彼はついにあるがままに泳ぐという妙術を得る

やってくる舟に挨拶したり、同じく泳ぐ人と技を教え合ったり

それでも彼はただひとり泳ぎ続ける

彼は海と遊べるけれど、ときには溺れてしまう


海になる人がいる

彼は揺れに身体を預けた

彼は海になる

海の目には晴天の空




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

晴澄 @seityo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る