第16話 口付け

「…なあ、どうして人は簡単で当たり前なことが出来ないんだ?


結婚して子供を産んだら、その子供を愛して全力で幸せな家庭を築けばいいだけだろ?


そうしたら子供は死にたいなんて思わない」


「…それが、簡単でも当たり前でもないからだよ、静寂」


有彦の脱け殻。彼を有彦と呼んでいいのかもわからない。人は、何をもってその人と識別すればいいのだろうか。身体か、それとも。


「なら、アンジェラと君が結婚し、子供をもうけて実践してみたら?」


「…俺とアイツはそういう関係じゃねえよッ」


叫び返すのが煩かったからだろうか、アンジェラが眼を覚ます。


「静寂…?ここはどこ?…ごめんなさい、私、不意を突かれて」


「馬鹿、気にするな。あれは俺が退治する。お前は安心して寝ててくれ」


「有彦は無事なの…?どこ…?」


まるで息子でも探すように、彼女は視線を漂わせている。俺は彼女に近付いて、額に優しいキスを落として。


「心配しなくて大丈夫だから。おやすみ」


彼女は何かを悟ったように眼を見開いた。が、すぐに悲しそうな表情のまま、眠りにつく。察しがいいにも程があるが、それだけ俺の嘘が下手なんだろう。


「…とにかく、あのセフィなんとかを倒す。お前が復活すりゃ出来るんだな?もりもり食ってばんばん寝て、さっさと復活しろ」


「無茶苦茶言わないでくれ…」


有彦は息を吐いて、枕に頭を沈める。


「あと何時間ぐらいは、あの化け物はおとなしくおねんねしてくれるんだ?」


「そうだなあ…僕は人間ではない分保持している記憶が膨大だったし、意図的に腹が膨れそうな記憶を喰わせたから、3日ぐらいは大丈夫じゃないかなあ」


「じゃあ3日で復活しろ。ついでに相討ちになって消えてくれてもいい」


「酷いなあ。助けたり消えろと言ったり。…まあ、君らしいけどね。


君に頼まれなくとも僕はアイツを倒すから。そうそう、僕がはやく復活する栄養をくれないか?」


「なにが必要だ?言ってみろ」


投げやりになっても仕方ないのは事実だ。有彦の精神がいなくなっても、化け物を倒さなくてはならない事実と、この男がそれに必要なのは変わりない。俺は料理が苦手だが、そのためならお粥でもなんでも作ってやる。顎をしゃくり。


「…僕の額にも口付けを」


「は?」


前言撤回。やはりこいつはもう必要ない。今すぐ焼き払おうと術式を唱えようとしたら、彼は慌てて。


「ちょ、待ってよ。ふざけた訳じゃないんだ。僕は君らの愛情で急速に回復したんだよ。…人間の愛には、それだけパワーがあるんだ」


「最もらしいことを言ってもしねえよッ寝ろ、クソして寝ろ!それで大体は直る!」


ふん、と鼻を鳴らすと俺は椅子に座り腕を組む。馬鹿馬鹿しくなったから。


俺は寝ないでコイツとアンジェラを見守る仕事があるから。


「はいはい…わかりました。じゃあおやすみ」


暫くすると寝息が聴こえてくる。彼は寝たようだ。


俺は、そっと椅子から離れると、寝息をしっかり確認してから彼の額に唇をあてた。

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