第6話 え? 日本?

 少年騎士の言葉に、広場にいた人たちのざわめきが大きくなった。


 聖なる舞姫が、ここにいるってこと?


 騎士の言葉を理解した瞬間、私は、足元が割れて吸い込まれていくような恐怖にガタガタ震えだした。


「ケイシィ……?」


 ケイシィのことだ。やっぱりケイシィは聖なる舞姫だったんだ。

 どうしよう。連れて行かれてしまう。

 そんなのダメだ。せっかく長年の夢が叶ったのに。

 愛する人と引き離すなんて、絶対ダメだ!


 ケイシィを探すと、何か楽しそうにジンに耳打ちして笑っているのが見える。


「ローラ、しっかりしなさい」

「だってお父さん……ケイシィが……」

「大丈夫だから。それはお前の勘違いだっただろう?」

 私が何に動揺しているのか気づいたらしいお父さんに、少し呆れたようにたしなめられ、少し恥ずかしくなる。でも昼間からお腹の奥にモヤモヤとくすぶっていた不安のようなものが、またゆっくりと頭をもたげてきて、私は指先が氷のように冷たくなるのがわかった。


「ローラ」


 人の間を目立たないよう移動してきたらしいガイが、いつの間にか私のそばにいた。またからかわれたら嫌だから少し笑って見せると、ガイに気遣わしげな目で見られ、そのいつにない態度に戸惑う。違う人みたいで調子が狂ってしまうわ。


 騎士たちは、広場のざわめきが落ち着くのを待ってるように、ぐるっと周りを見回している。と、どこからか、「それは一体どういうことですか?」と声が上がった。

 周りの反応は私の不安とは逆で、誇らしげで何か期待しているような明るい空気だ。それに気がついて、私は思わず俯いた。自分の反応が一々皆とずれているのに気づいていたたまれなくなったのだけど、これは私が子供だからなの?


「イザーナへ着く直前、この町から加護の光が飛んできたのだ」

 楽しそうにルビー王女殿下が言った。

 そして、その加護を送ってくれた乙女はどこだと、宝物を探す子供のように目をキラキラさせて一人一人に目を留める。

 それがケイシィのほうを向こうとしたとき、私は思わず叫んでしまいそうになり、声が漏れてしまわないように両手で口を押さえる。


 心の奥の遠くのほうで、どこにも行かないで! と誰かが泣く声が聞こえる。


 私が舞宝みたいな姿なら。

 せめて舞宝みたいな黒い髪なら。

 それなら万が一にも、私が聖なる舞姫の可能性もあったかもしれない。


 小さな子供の勘違いだと言われても、王族が来たことで、どうしてもあの壁画を見たときの恐怖がよみがえり、何度振り払ってもこの恐怖を拭うことができない。


 五歳しか離れてないのに、私のお母さんでもあったケイシィ。いつも優しいお姉ちゃん。

 ケンカをしても、結局折れてくれるのはいつもケイシィだった。

 小さな妹の面倒をみるのは、ケイシィ自身も子供だったことを考えると、なんて負担だったんだろうと思う。だから、新しい門出を精一杯祝った。すべてのことが彼女の幸せためになるようにと願って。


 ケイシィがどこかへ行ってしまうくらいなら、私が。

 そう思ったとき、王女殿下の視線はケイシィを素通りするのが見え、へなへなと力が抜ける。


「よかった。やっぱり私の勘違いだったね」

 へへっと笑ってガイを見ると、なぜかガイの顔が強ばっている。

「ガイ?」

「ローラ、お前その髪」

 髪?


 言われて手でさわってみると、慣れているのに不慣れな感触。

 一房つまんで見ると、私の髪が舞宝のような真っ直ぐな黒髪になっていた!


「え?」

 知らず声が漏れる。

 と同時に、視線を感じてそちらを向くと、ナイト王子殿下がこちらを見ている。目が合ったことに驚くと、彼は蕩(とろ)けるような甘やかな笑顔になり、こちらに歩き出すのが見えた。アイドルを見たような、女性たちの小さな歓声があがるのが遠くに聞こえる。


 私は頭の中が揺すぶられたようにグラグラし、目の前に黒い幕が下りるように暗くなる。ゆっくりと倒れながら、手をつかないと怪我をすると、ぼんやり考えていた。


 ◆◇◆◇◆


 目が覚めると、窓の外に半分に欠けた月が見えた。

 なのに今夜は妙に月の光が明るく、電気を消してるのに部屋の中のものがはっきり見えるくらいだ。

 高熱の後の気だるさを感じながら、ゆっくりと体をおこす。少しぐらつくけど、熱は下がったみたいだ。

 視界が少しせまいなと思いつつ、たくさん汗をかいたのでシャワーを浴びようと一階に降りる。


 パジャマを洗濯籠に入れ、熱目にしたシャワーを浴びると、だんだん体も頭の中もスッキリしていくわ。

 お湯と一緒に重りを流したような感じで上がると、フカフカのタオルで体を拭き、ふと違和感を覚えた。鏡に映る自分をまじまじと見つめる。

 そして、タオルを見て、いま出てきたばかりのバスルームを見て、洗面台の鏡を再び見る。


「うそ、なんで?」


 ここは日本だ。舞宝の世界だ。

 だったら私は舞宝のはずなのに、なんで鏡に映る姿はローラなの?


 心臓がバクバクして、ちゃんと考えられない。


 記憶をさらうと、舞宝は珍しく昼間も高熱を出していた。最近は夜高い熱が出ても、朝にはすっかり下がっていたのに。おかげで試験前なのに学校を欠席し、また皆勤はだめだったなとがっかりしてたんだ。せめて明日なら土曜で休みだったのに、と。

 今日は、妹の美緒が二泊三日の移動教室に出発して、お父さんはシンガポールに出張に出てる。

 今このうちにいるのは、私とお母さんだけだ。


 どうしよう。

 スーシャ町にはない、はっきりと映る鏡に映った自分をまじまじと見つめる。

 私ってこんな顔なんだと、ちょっと物珍しくなる。よく見ると、口元とか顔の輪郭とか、ケイシィと似てることに気づいて、少しうれしい。

 顔立ち自体は、意外なほど舞宝と変わらなくて驚いた。

 でも、この髪と目はごまかしようがない。肌の色だって、高熱で寝込んでたのに、いきなり日焼けするとかありえないし。

 どうしよう、絶対お母さんがびっくりする。


「いくら普段から舞宝を見てくれないお母さんでも、さすがにこれには気づくわよね」


 私を見たお母さんがびっくりして、拒絶され、追い出されるところを想像し、あわてて用意していたルームウェアを身につける。裸で追い出されるのはまずいもの。

 想像なのに、怖い顔のお母さんにちょっと涙が出てくる。


 改めて鏡を見ながら、ローラと舞宝の記憶には、まだ薄い膜があったことに気がついた。


「目が覚めた瞬間、細かいことは忘れてしまってたんだろうな」


 鏡ってこんなにはっきり映るものなんだ。

 電気って便利。

 シャワーって楽。

 洗濯機とドライヤーを持って帰りたい。


「って、そうじゃなくて」


 キッチンに人の気配を感じる。お母さんが夕飯の支度をしてるに違いない。

 ドクドクと心臓がうるさい。

 洗面所はキッチンの隣だから、姿を見られる可能性が高い。

 でも、お母さんは私をまともに見ないから、髪さえ隠せばばれないかもしれない。――って、ちょっと待って。ローラって日本語話せるんだっけ? 言葉についてなんて考えたことなかった。

 声は? 舞宝と同じ?


「だめ。うまくいく気がしない」


 どうしてこうなったんだろう? なんでローラのまま? 舞宝はどこ?

 意識を集中させるけど、記憶は同時進行しないから、今舞宝がどこで何をしているかは全く感じられなかった。

 倒れる前に私の髪は黒かった。ということは、あの時入れ替わってたってことなんだろうか。

 どうして? いったい何が起こったの?


「舞宝、あがったの? もう熱はさがったの?」

「うん」

「じゃあ、ご飯できたからいらっしゃい」

「はい」


 とりあえず、言葉は大丈夫そうだ。


 ◇◆◇◆◇


 急いで部屋に戻って、室内だし季節外れだけど、黒っぽい色のニット帽をかぶる。伊達メガネがほしいところだけど、残念ながら持っていない。髪しか隠れてないけど、もう、これで行くしかない。


 自分の家なのに、緊張でがちがちになりながらダイニングキッチンに入る。

 今日の夕食は鍋焼きうどんだ。

 たぶん、舞宝の熱が続いたから好物を用意してくれたんだろう。


「さ、いただきましょう」

 いつも通り、お母さんが私から目をそらしたままそう言った。

「はい。いただきます」

 まずはレンゲを持ち、スープを一口飲む。

「おいしい……」

 箸に持ち替えて、今度はうどん。

「おいしい」

 お母さんの料理だ。ローラは食べられない、母親の味だ。

 喉の奥がぐっと詰まった。


 お母さんの料理ってこんなにおいしかったんだね。

 いつも舞宝のことは見えないみたいに扱うくせに、どうして舞宝の好物が出てくるの? お母さん、これおいしい。おいしいよ。


「あんたは、満月の日はいつも体調を崩すわね」


 いつもなら、舞宝には迷惑そうに言ってるようにしか聞こえないお母さんの声は、ローラの耳には気づかわし気で心配してるように聞こえる。

 私はうどんにのった月見卵をつっつく。

 舞宝好みの半熟のお月様。とろりとした黄身にうどんを絡め、また一口食べる。おいしい。


 パタパタっと涙がこぼれ、嗚咽が止まらなくなる。

「舞宝?」

 お母さんが私を見る気配がした。

「どうしたの? まだつらい?」

 いつもと違う、戸惑ったような優しい声。

 拒絶されてもいい。お母さんの顔が見たい。


 顔を上げると、ハッと息をのむお母さんの顔が見える。ちゃんと正面から見るのは何年ぶりだろう。


「え? ま…ほ?」

「お母さん」

 一回だけ、ちゃんと顔を見て母親を呼ぶ。

 うん、満足……。


 箸をおいて、拒絶の表情や言葉を聞く前に目の前から消えよう。舞宝に戻れるまで、どこに行けばいいのかわからないけど。

「待って。舞宝なの? え?」


 走って部屋からパーカーと財布を取って、玄関を飛び出す。自転車のカギは忘れたから、自転車を使うことはあきらめて走った。舞宝と違って体が軽いし、早く走れるのが変な感じ。

 どこへ行こうか考えて、山の公園に向かう。

 そこは小さな山にある古い公園で、小さな観覧車などがあるちょっとした遊園地だ。小さいころは連れて行ってもらったけど、もう十年くらい行っていない。それでも道に迷うことなく走り続け、公園で息を整えた。

 もうすでに遊園地は閉園してるけど、もともと入場は無料の公園なので入れる場所は多い。多少街灯もあるけど、人ひとりいない公園は月の光に明るく照らされていた。


「観覧車、こんなに小さかったんだ」

 月明かりに照らされた観覧車を見上げると、そのコンパクトさに驚く。

 観覧車の前には、ちょっとした芝生とテーブルとベンチがあって、その向こうの柵から町を見下ろすことができる。

 小さな田舎町だけど、家々にともる明かりが人々の生活を思わせ、なんだか暖かい感じがする。


 地球の月は金色だ。

「お月様、一つしかないのに、なんて明るいのかしら」

 月をすくい上げるように、大きく右手を伸ばす。


『ここは、いい町だな。清涼な力に溢れている』

 ナイト王子のやわらかな声を思い出し、胸が高鳴る。思いだすだけで安心できる声って、一種の才能じゃない? 

 今、金色の月の力を感じ、王子の言った意味が何となく理解できた気がした。

 あの時、甘やかな笑顔を浮かべた王子は、私が倒れるとき、焦った顔で走ってくるのが見えたのを思い出す。そばにはお父さんもガイもいたから、うまくいけば怪我をせずに済んでるかなぁ。


 ベンチに腰を掛けて、ゆっくりと頭の中を整理する。今まではわからなかった、気付いてもいなかったことが、ここへきて見えることに気づいたけど、入ってきた情報が多すぎてうまく整理できない。

 月を仰ぐと、静かに力が降り注ぐ気がした。


 なぜローラのまま日本にいるのかわからない。でも今舞宝は、たぶんスーシャ町にいる。

 同じ人間なのに、少し視界が変わっただけで見えるものが違うんだ。

「ねえ、舞宝。お母さんは舞宝のことを嫌ってなんかいないよ」

 いつもなら都合がいい妄想だと思うけど、ローラの目から見たお母さんは、どちらかというと舞宝を見るのを怖がっていたんだと気づく。

 制止を無視して飛び出して、傷つけてしまったかもしれないと、いまさらながら気づいた。


「でも、もし拒絶されたらと思うとつらかったんだもの」


 ローラの母親は、ローラを産んで間もなく亡くなった。トウルでは出産で母親や赤ん坊、もしくはその両方が命を落とすことなど、そう珍しいことではない。

 ローラは一度命を落としかけたけど、お産婆さんの話によれば、お母さんがローラを助けてくれたんだという。

 自分のせいでお母さんが死んだんだと思うとつらかったけど、お父さんもケイシィも心から私を大切にしてくれたから幸せだった。

 でも普通にお母さんがいる舞宝はもっと幸せだった。あの日、怖い顔を見るまで。お母さんが私を見なくなる日までは。


 立ち上がり、救いを求めて手で月の光をすくう。

 魔獣の魔力とは比べ物にない魔力を感じ、私はそれをごくごくと飲み干した。

 全身に魔力がいきわたり、体の奥が少し暖かくなったのを感じる。


「舞宝?」


 お母さんの声が聞こえた気がして振り返る。

「お母さん?」

 どうしてここに?


「舞宝、なのね?」

 ゆっくりとお母さんが近づいてくる。怒ってないし、怖がってもいない。私の顔を確かめるように一生懸命見ている。

 一歩も動けない私に、お母さんは自信なさそうに私の頬をなで、髪をなでると

「……二つの月の?」

 と言った。

「え?」

 どういう意味なの?

「今は、ローラちゃん、なの? 舞宝」


 なんで、なんでなんでなんで。

「なんで、わかったの?」

 蚊の鳴くような声で言うと、お母さんは私をきつく抱きしめると、わっと泣き出してしまった。

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