ヒモになりたかった男

シオン

ヒモにされた男

 高校生になり、アルバイトが許されるようになりウキウキで履歴書を書いていたときのことを今でも覚えている。


 アルバイトで働けばお金が手に入り、自由に好きなものが買える、好きなところに旅行できる。彼女ができればオシャレの服を買ってデートして好きなものを食べさせたり買ってあげたりできる。今まで親の小遣いでしかお金は使えなかったが働ければもっと使える幅が広がる。そんな夢と希望を持っていた時期があった。


 しかし実際は自分の時間が減り、バイト先の人間関係でストレスが溜まり、苦労して得た給料はどうでもいいものにしか使われなかった。おまけに可愛い彼女はできなかった。


 俺が求めていたものはこんなものだったのか。そんな疑問ばかりが募り、いつしか働きたくないとばかり思うようになり、今はどうやってヒモになるか考えている。


 人生は自分の欲しいものは手に入らないようにできている。そんな誰かの言葉を思い出した。



「川上さん、なんで人って働かないといけないんですかね?」


「糸田君、そんな人類の永遠のテーマを振られても困るわ」


 バイトの休憩中、同僚の川上 朱里さんに俺は愚痴っていた。川上さんは大学二年生のお姉さんでいつも何かあれば甘えさせていた。


「糸田君、また嫌なことがあったの?」


「安田のやつがまたどうでもいいことで騒いでいたんですよ。台拭きを水洗いしただけで「今やることじゃないでしょ!!!」てさ。まるで大事のように騒ぐものだから疲れるんですよ」


「まあ安田さんはそういうところあるからね。人の粗を見つけては注意しないと気が済まないというか」


「俺が後輩なのに自分より仕事ができるのが気に入らないだけですよ。あんな大人にだけはなりたくない」


 俺が現実に絶望している理由のひとつがそれだ。世の中は自分が思うより雑多で、色々な人間がいる。それはどの組織でも均等に配分されていて、嫌な奴はどの組織にも少なからずいる。


 最初は俺も嫌な顔せず「怒られるのはまだ俺が未熟だからだ」と思うことで成長の糧にしようとした。しかし、それなりの組織を見てきて色んな良い人を知るにつれて世の中には自分より下等で不機嫌ばかり振りまく人種が存在し、それは俺がどんなに成長しても関係なく俺に牙を向くことを知った。


 自分が聖人君子のつもりは微塵も思っていないが、どうして人にあんな態度取れるのか理解できなかった。自分は正しいことをしていると思っているのか。良いことをしていると思っているのか。だとしたらどうしようもないと思う。


「人間はどんなに自分が嫌な人間だとわかっていても自分を否定はできないのよ。だから自分を肯定するために嫌なこともする」


「そんなの間違っているじゃないですか。自分を肯定するために他人を攻撃するなんて」


「間違っていても言ってわかることじゃないわ。だから、今こうして愚痴を聞いてあげてるんじゃない」


「……すいません」


 俺は急に恥ずかしくなった。すると川上さんはにこりと微笑んだ。


「大丈夫よ。私糸田君のお話聞くの好きだから」


 なんて良い人なんだ。俺が男なら惚れてる。あ、俺男だったわ。


 川上さんはいつも冷静に話を聞いてくれる。俺が間違っていたらそのときはたしなめ、俺が傷ついていたら抱いて慰めてくれる(一部誇張表現あり)。そんなお姉さんだからこそ俺は甘えてしまうのかもしれない。


「糸田君は今年高校三年生だっけ?進路はどう?」


「進路ですか。正直あまり芳しくないですね」


「あら、どうして?」


「特にやりたいことがないので。できるだけ楽に生きていけたらと思っていますが」


 正直な話、今みたいな生活が人生の半分以上続くと思うと胃が痛くなる。おまけに社会人になれば一人暮らしもするかもしれない。そうなれば働いて得たお金も好きなことに使えなくなる。生活に必要なものにお金が消費され、そのお金のためにストレス抱えながら働いて生きていくなんて今から憂鬱になる。


「どうして人って働かないといけないんでしょうかね」


「……その、糸田君」


「あぁすみません、こんな暗いことばっか言っちゃいけませんよね」


 川上さんは優しいからつい愚痴を溢してしまうが、そればかり言ってもいられない。こんなことばかり言っていたら川上さんも気が滅入るだろうし。


「ううん、いいのよ」


 川上さんは優しく微笑む。女神かこの人は。


「休憩もそろそろ終わりですね。とりあえず今日も働きますか」


 立ち上がり、休憩室を後にする。この話はひとまずこれで終わりになった。



 机の上には一枚の紙があった。


 それは進路希望調査票であり、俺の将来を決定付けるものだった。


 今は五月下旬、この時期に提出もせず白紙のままにしている生徒は俺ぐらいのものだ。他の友達はとっくに提出していてその将来に向けて動き始めている頃だ。そんな彼らを眺めては焦燥感に駆られどうにか書こうとペンを握る。


 しかし、どうにもそこから動けなかった。建前上進路を決めなくてはいけないと思うのだが、やはり本音では働きたくないという気持ちのほうが強いのだろう。どうしたって自分に嘘はつけなかった。


 結局その日は白紙のままかばんに仕舞い込み提出はしなかった。そのことを気にしなかったわけではないが、いずれ決まると思い後回しにすることで心の安定を図った。


 学校からの帰り道、そのまま職場に向かって歩いていたら偶然川上さんと遭遇した。彼女は微笑みながら手を振り並んで歩いた。


「仕事前に会うなんて珍しいですね」


「う、うん。そうだね」


 彼女は何故かしどろもどろだった。いつもクールな川上さんが珍しいと思ったが、そんな日もあると思って軽く流した。


「今日って夕ご飯はどうするの?」


「あぁ、今日は早く仕事終わるのでそのあと済ませますね」


 今日は二十時に終わる予定なのでその辺の飲食店で済ませるつもりだ。ある意味俺の給料の数少ない有益な使い道でもある。


「私も今日は早く終わるんだ。よかったらうちに寄ってかない?」


「え……」


 年の近い女性から家に誘われる。この意味がわからないほど俺は鈍いわけではない。つまりそれは男女のお誘いなのだ。


「え、でもいいんですか?川上さん一人暮らしですよね?」


「えぇ、どうせならうちでご飯食べていかない?」


 無論俺に女性経験はない。だからこれから起こることは想像の域を出ない。しかし、俺の人生に本当にそんなウキウキイベントが起こり得るのだろうか?


 こうして期待してお家にお呼ばれされて結果、そんな対象として見られていなかったなんて報告を思い出した。それは期待した分だけガッカリしてしまうことだろう。俺はそれほど期待せず、しかし内心期待を膨らませてその招待を承諾した。



 バイトを終え、俺は川上さんと川上さんの住むアパートへ向かった。


「もしかしたら部屋汚いかもしれないけど、汚かったら言ってね?」


「い、いえ、そんなことないですよきっと」


 俺はバリバリに緊張していた。女性経験のない男にこの状況で緊張するなというほうが無理な話だ。おまけに川上さんはクールビューティなのだ。余計に緊張する。


「糸田君は嫌いな食べ物はない?」


「いえ、特に大丈夫です」


 そんな特筆すべきない会話を続けていると彼女の自宅に着いた。一般的な特に遜色ないアパートだった。


「上がって」


 中に入ると中は物が少ない一般的な一人暮らしの部屋だった。しかし女性特有の香りがしてやっぱり女性の部屋なんだなって再認識する。


「普通の炒め物だけどいい?」


「いいですよ」


 その後彼女の料理を味わい腹を満たした。味はとても美味で、母親以外の料理は初めてなのでとても新鮮だった。


「美味しかったです。ありがとうございます」


「いえいえ、糸田君は料理ってするの?」


「いえ、しないですね。どうも向いてないみたいで」


 そう、と彼女はどこかし思案顔になった。まるで何かを確かめるような、図っているような。


「糸田君はそういう料理作ってくれる相手って欲しい?」


「え、えぇ、できるなら是非」


 まさかそういう意味なのか?相手がいないなら私が作ってあげる的なそういう意味?


「なら糸田君」


「はいっ」


 期待を膨らませて返事をすると


「私のヒモになってみない?」


 想像の斜め上のことを言われた。



「ひ、ヒモ?」


「そう、ヒモ。糸田君前から働きたくないって言ってたよね?」


 彼女は照れ臭そうに言うが、こちらは何ひとつ事態を理解してはいなかった。今までただの同じ職場の仲間だった女性が急に私のヒモにならないかと訊いてきたのだ。そりゃ混乱だってする。


「あの、どうして?」


「あぁ、急にこんなこと言われても困るよね?私はなんというか、自分に甘えてくるダメな人が好きなの。繊細で、とても世の中で生きていけないような弱い人が大好きなのよ」


 彼女はとんでもないカミングアウトをかました。というか俺ダメな人だと思われてたの?


「高三のこの時期に未だに進路が決まってない人がダメじゃないって思う?」


「そ、それは人によりますね……」


 図星だったので誤魔化すように言った。目線も逸らしてボソボソとしていたので誤魔化せていないだろうけど。


「で、どう?とりあえず今から」


「今からスか……」


 話が急すぎる。ヒモになるにしても準備というものが必要だし。


「そう、糸田君が逃げないようにね」


「やだなぁ、逃げないですよ」


 本心を誤魔化すように笑って否定した。しかし本当のところ気持ちは半々といったところだろう。川上さんのヒモならむしろこちらからお願いしたいところだが、何か裏がないかとか、本当にそれでいいのかという倫理的な話だったり、様々な感情が入り混じっていた。


「何か気にしてる?気にしてるならなんでも言って?」


「じゃあ少し時間もらっていいですか?」


「だめ、今決めて」


 川上さんはじわじわとこちらに近付き、壁際まで追い込まれていた。その様子はまるで獲物を逃がさない蛇のようだった。


「糸田君、よく考えてみて、進路が決まったところで今みたいな苦労が消えるわけじゃないんだよ?」


 彼女は俺の頭に手を添えて優しく撫でた。


「大人の世界には安田さんみたいな意地悪な大人がいるんだよ?いや、もしかしたらそれ以上に酷い人がいる。その人たちは糸田君みたいな弱い人を狙って攻撃してくるの。私は糸田君にそんな目に遭ってほしくないからね。私は、糸田君の味方だから」


 彼女は後ろに手を回し、まるで母が子を慰めるように抱きしめた。


「それに世の中から逃げるなら今が最大で最後のチャンスだよ。今なら楽に生きられる。だけど今を逃したらこの現実で生きるしかなくなる。それを理解した上で選んで」


 彼女は妖艶に言った。


「君はどうしたい?」


 俺はもう、ろくに考える余裕がなかったのだろう。彼女の声と匂いと妖艶な雰囲気に脳は麻痺し、先ほどまであった疑心がなくなっていた。緊張と興奮で頭は極限状態に陥り、半ば流されるように頷いた。



「じゃあ私は大学に行くから、ここで待っていてね?」


 川上さんは身支度を済ませ俺の朝ごはんを用意して出かける準備をしていた。平日に学校に行かなくてもいいと思うとなんだか妙な気分になる。


「その前にちょっと失礼」


 そう言うと彼女は後ろに手を回して抱きしめてきた。それは5分ほど続き身体を離したときに見えた彼女の表情は満足そうだった。


「仕事終わったらすぐ帰ってくるから、続きはそのあとでね」


 手を振って彼女は部屋を出た。俺は少しの間夢心地な気分に浸り、落ち着いた頃にぼそっと呟いた。


「今日からヒモ生活なんて実感湧かないなぁ」


 今日からずっと、彼女が許す限り彼女の庇護下で、彼女に守られながら、彼女に甘やかされながら生きていくのだろう。そのことに一抹の不安を感じなくはないのだが、今はヒモ生活を楽しんでもいいのかもしれない。


 本当にいいのかなっと心の奥底で呟いた。


 しかし今になってあの決定は覆せないだろう。それにこの生活が良いものかどうかなんて今判断できるものじゃない。後に判断を任せても遅くはないだろう。


「当面の問題は、川上さんが返って来るまでどう時間を潰すかだな」


 こうしてヒモ生活が始まった。そのことを後悔するかどうか、今は知る由もない。



つづく

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