58.飛翔

 メモでも……というにはちょっと時間がなかった。書くものがないというのもある。

 リビングの窓を開けて見下ろしてみたけれど、賑やかな集団は周囲の建物を三々五々覗いて、賑やかなまま去って行った。

 五階とはいえ、足がかりがあれば下りられるかも、とついでに確認してみたのだけれど、甘かった。つるんとした壁には掴まれそうなところもなく、開いているならともかく、どの階の窓も閉め切られている。初めに思った通り、人の気配はない。

 建物中央にある外階段も透明のパネルで覆われていて、身が軽くとも飛び移ったり出来なそうだった。


「監禁のために造ったみたい」


 小さくこぼれた言葉が聞こえたのか、天野さんは肩をすくめて仕事のためのパソコンを開いていた。


「俺は逃げてもどうにもならないのにね。念入りだよね」


 久我……というか、相馬という人はそうやってきたから今の地位にいるのだろうか。牧場のようなあの一帯も、ここも、簡単に貸し切れるものでもないだろう。

 ほんの一瞬の賑やかさは、その後の静けさを増幅して沈んだ気分にさせる。

 天野さんは仕事を、私はかかっているワイドショーを見たり、天野さんのための資料を手に取って見したりして時間を潰していった。





 その日は夕方にスーツ姿の数人が食べ物や飲み物の補充をしに来て、無言のまままた出ていった。天野さんが言うように、話しかけても反応はなかった。着替えくらい欲しいとしつこく言ったので、次の時には届けてくれないだろうか。文句を言うふりで一緒に出られないか試してみたけど、あっさり押しのけられてお終い。

 まあ、見た目からして屈強な感じで、腕力では到底敵いそうになかった。

 面白くない気分で見ていた夕方の情報番組では、私たちが沖縄行きのフェリーに乗っているのでは、という不確定情報が流されていた。「私も沖縄でのんびりしたいですねー」なんて、冗談を言う司会者にもイラっとする。

 報道陣は一斉に沖縄に向かうんだろうか。


「いっそ誰か、フェリーに乗り込んで探してくれればいいのにね」


 天野さんも溜息をついている。

 ジーナさんあたりがしてくれないかな、とも思ったけど、すでに動き出しているフェリーに乗り込むのは無理があるんだろうな。


「天野さんは、まだ冨士君を信じてますか?」

「うん。このまま彼が戻ってこなければ、相馬が勝手に婚姻届けも他の書類も出せないだろうし、ただ、そうなると強硬手段に出られるかもだから、その前にどうにかしたいのはしたいよね……紙飛行機でも作って飛ばしておこうか」


 窓を指差して彼は手元の雑誌を一ページ破くと器用に折って見せた。


「お上手ですね。私、鶴しか知らないかも」

「鶴よりは簡単だよ?」


 笑う天野さんの手を離れた飛行機は、ちょっと曲がって壁に当たって落ちた。


「いっぱい落ちてたら、誰か変に思ってくれるかも。迷惑行為で警察でも来てくれれば、もうけものじゃないかな」


 そもそも人の姿を見かけないので、そのうち風に飛ばされてしまうかもしれないけど、今朝のこともある。やらないよりは、と実行してみることにした。


「……ケチャップで文字書くのやりすぎじゃない?」


 羽部分に「タスケテ」と書いたのを見て、天野さんは笑う。

 ちょっとしたホラーだ、と。あと、羽のバランスが変わるから、あんまり飛ばないかも、とも。

 どこかにぶつかったり、地面にこすれてしまえば読めなくなるだろうけど、少しでも不穏が伝わればいいと思う。

 出来ることも無かったので、単純作業は意外と楽しかった。気が付けば、日が落ちて暗くなりかけている。作業はそこでやめて、夜のご飯を食べることにした。


「飛ばすのは明日だね」


 などと雑談を交わす。まるで、悪戯を計画している子供のようだなと思いつつ、楽しんでいる自分も自覚していた。

 流れ始めたバラエティ番組に何気なく視線を向けた時だった。

 目の端になにか黒っぽいものが見えた、と思った瞬間、窓に何かがぶつかってきた。

 ガシャッという音は生き物ではないだろう。天野さんと顔を見合わせると、彼は素早く立ち上がって音の正体を確認しに行った。


「……誰か、いる」

「え?」


 私も駆け寄ると、天野さんは窓を開けた。暗くて顔はよく見えないのだけど、確かに二人立っていて、ひとりが手を振るように片手を上げる。もうひとりはいくらか近づくと、振りかぶって何かを投げつけた。


「……おわっ」


 届くわけないと怪訝な顔をした天野さんはまっすぐに飛び込んできたものを慌てて避けて、部屋の中に転がっていくそれを追いかけて行く。

 薄暗がりの中、ぽっとオレンジの小さな光がついた。蛍の光のように少し強く光って、弱くなる。煙が吐き出され、口元に手を当てると、その人は大きな声を出した。


「お嬢さんっ」

「飛燕さんからだ。どうにかするから、ちょっと待っ――」


 背後で天野さんが何か言っているのは判ったけど、その言葉は全然聞こえていなかった。ほとんど無意識に窓枠に乗り、逢魔が時のまだ少し赤味の残った空へと飛び出す。


「は?!」

紫陽しはるさん!?」

「ツバメっ!」


 少しの間滞空している間に、バイクの音とライトが一つ、そこまで来ているのが見えた。落下地点に飛燕が駆け込み、ツバメを呼ぶ。


「まじかよ!?」


 煙草を投げ捨てたツバメが飛燕に向かって走り出し、飛燕が雑技団のように、ツバメを放り上げた。半分くらい落ちたところで、ツバメに抱き留められる。相変わらず煙草の臭いのする服になんだかほっとして、私もしっかりとツバメに抱きついた。

 バイクが転倒するような派手な音がして、誰かが駆け寄ってくる。


「紫陽!!」


 ああ、冨士君の声だ、と思ったとき、飛燕がツバメごと私たちを受け止めた衝撃が来た。




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