57.団体

「書きません」


 小さな抵抗だ。もし、彼の言うように事が運ぶのだとしても、自分からなどするものか。

 相馬も、解っているのだろう。うすら笑いを浮かべて、もう一度封筒に手を入れた。


「世間はお似合いのペアだと認識してくれていますよ? 必要かと思いましたが……無い方がいいかもですね」


 天野さんの方に差し出されたのは、小さな箱だった。カッと頬を紅潮させて、それを押し戻そうとした天野さんの手を上から押さえつけて、相馬は小さな子を宥めるように続けた。


「好きな人と二人きり。我慢できなくなっても、仕方ないと私は思うのですよ」


 微かに震える天野さんの手をポンポンと叩いて、「良い夜を」と相馬は出て行った。

 箱から手を離せないまま、それを睨みつけるようにしている彼に、私がかけるべき言葉が見つからない。

 相馬は天野さんに意識させるように、わざと避妊具の箱を差し出したのだ。

 意識してしまった天野さんに今私が声をかけるのは逆効果だろうし……トイレにでも行って、ちょっと時間と距離を置いた方がいいかもしれない。

 そっと立ち上がるのと、天野さんが声を出したのは同時だった。


紫陽しはるさんっ。寝室、鍵かかるんです。使ってください! あと、申し訳ないんですけど、シャワーとか、明日の朝にしていただけたら……」


 視線も身体も動かさず、下手な誤魔化しもしないところが天野さんだなと思う。

 だから、私は素直に頷いた。


「ありがとうございます。おやすみなさい」


 時間的にはまだ寝るには早いのだけど、天野さんの気遣いを無駄にしたくもない。

 寝室のドアを閉じると、大きく息を吐くのが聴こえてきた。

 シングルのベッドが一つと備え付けの小さな机、クローゼットがあるだけのそっけない部屋。だけど、ベッドの上には何かが置いてあった。

 クッション、よりは大きい?

 近づくと、猫耳少女が際どいネグリジェを着た絵がプリントされている抱き枕だった。

 さっきの今だとちょっと恥ずかしいけど、ぎりぎり可愛いの範疇だろうか。一緒に寝る気はないので、机の上に移動させちゃってもいいかなと振り返ったら、隣の部屋から叫び声がした。

 びっくりして、そっとドアを開けて覗いてみる。


「あ、天野さん?」


 天野さんは机の横で床にへたり込んでいた。


「だ、大丈夫ですか?」

「……べ、ベッド……」


 蚊の鳴くような声をなんとか聞き取る。がっくりとうなだれた頭は上がりそうもない。


「あの……適当に、避けて……いや、困るだろ。困るだろ、俺!!」

「……抱き枕、ですか? こちらに持ってきましょうか」


 たっぷり五秒くらいフリーズした後、うなだれた頭が小さく揺れた。


「その辺に……置いておいて、いただければ」

「あ、はい」


 なんだかさっきまでの張りつめた空気が、一気にはじけて伸びきってしまったみたいな様子に、悪いなと思いながら、私は静かに肩を震わせたのだった。





 何度か思い出し笑いをしていた私の耳に、シャワーの水音が聞こえてきた。今のうちに、と、洗面所を覗いてみる。紙コップとホテルにあるような使い捨ての歯ブラシが置いてあって、新しいものを使わせてもらうことにした。

 その場で天野さんと鉢合わせてもまた気まずくなるだろうから、シンクの方で手早く寝支度を済ませてしまう。

 リビングで、置いてあった雑誌と洋館の写真集のようなものを一冊ずつ借りて寝室に戻る。目につくところに抱き枕は見えなくて、どこかにしまい込んだんだと思うとまた少し笑えた。


 どうにもできなくて、このまま天野さんと結婚することになっても、そう不幸ではない気がする。

 でも、だからこそ、彼の気持ちを軽んじてはいけない。こんな風に誰かの思惑に溺れさせたままではいけない。

 ――天野さんが信じている冨士君を、信じてもいいだろうか。

 私の指紋データを持ったままなのは、少しでも事態を引き延ばすためだと。何か策があるのだと。「おとなしくしてろ」とは、脅しではなく、そのままの意味だと。

 私のためではなくとも、天野さんのために、きっと動いてくれてるのだと。

 無駄に悲観的になるのでもなく、かといって楽観的でもなく、来る明日のために、私は目を閉じた。




 ぐっすり眠って、スッキリ目覚めた朝。

 天野さんはソファで上手く眠れなかったのか、それとも昨夜のことをまだ引きずっているのか、少々挙動不審のまま挨拶を交わす。

 冷凍のピザとインスタントコーヒーで朝食をとっているうちに、天野さんも調子を取り戻してきた(というか、開き直ってきたのかもしれない)。

 朝のニュースをチェックしていると、玄関の方が騒がしくなった。

 天野さんと顔を見合わせて、行儀悪くも入口ドアのところまで様子を窺いに行く。外を見られるわけではないので、耳をそばだてていた。

 がやがやと団体旅行のような賑やかさで、どうやら向かいの部屋に来たらしい。こちらに向かう気配もいくつかあるのだけど、誰かが呼び止めるような声が響いた。

 ような、というのは日本語ではなかったからだ。英語でもなく、おそらくアジア系。


「中国語かな……?」

「別のも混じってるみたいだけど……」


 足音がひとつ近づいてきて、激しめにドアが叩かれる。がなるような声に、びくっと肩が震えた。


不是的違います


 天野さんの答えに、足音は遠ざかっていく。


「わかるんですか?」

「簡単なのは。中華系の人たちとは割と仕事するし。話すのは片言くらいしかできないけど。アプリに頼りっぱなしだからなぁ」

「そうなんですね。何て言ってたんですか?」

「会場はここか? みたいな……でも、どうやら間違いか手違いみたいで……なまりみたいのが強くてよくわからないな」


 天野さんはちょっと首を傾げた。

 わいわいした雰囲気は、エレベーターでまた去って行く。不満気な話し声は、外から聞こえるようになって、別の場所へ移動していった。




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