52.隠家

 差し出された手を掴んで起き上がると、同じように尻もちをついていた男が怒りの形相で起き上がってくるところだった。

 考える暇も、迷う暇もないまま、引き寄せられる腕に従って後ろに乗る。


「離すなよ」


 とりあえず腰に回した手は、急発進で外れそうになったことが怖くて、力いっぱいしがみつくことになった。背中に押し付けた耳が、少し早い心臓の音を拾う。

 あとは、風の音とギアを上げていくエンジンの音だけしか聞こえなかった。




 どのくらい走っただろう。少しスピードが落ちて、興奮も収まり、寒いなと思い始めた頃だった。道路脇にバイクを止め、彼が振り返る。


「ちょっと降りろ」


 きつく強張っていた手をなんとかほどいて、言われた通りにすれば、彼は上着を脱いで私に放ってよこした。ヘルメットも脱いで軽く手櫛で髪を梳いて整える。

 ちょっとぼんやりその様子を眺めてしまっていた私を見ると、冨士君は眉を寄せた。


「早く着ろよ。追いつかれるぞ」

「えっ。着て、いいの?」

「なんだと思ったんだよ」


 呆れたような溜息に、慌てて袖を通す。風で冷えた体にじんわりと温かさが染みた。しっかりと前も閉めたのを見届けて、冨士君はちょいちょいと指先で呼ぶ。近寄れば、持っていたヘルメットを被せられた。衝撃が少し痛い。


「わ。あの、これ、冨士君は……」

「もうそんなに飛ばさないし、裏道に入るからいい」

「どこに……」

「乗れ」


 自分はフェイスマスクをつけて、眼鏡をかけ直し、バンドでしっかり止めている。今はもう余計なお喋りはしてくれそうになかった。

 ふと、端末ホルダーに目を留めて確認される。


「電源、入ってないよな?」


 頷けば、あとは前を向いてハンドルを握った。

 何度か後方を確認しながら、車の入れないような細い道に入っていく。幹線道路に出て、また獣道、というようにバイクは進んだ。

 すぐ後ろをつけられていても、きっと見失われただろう。

 そうやって辿り着いたのは、林の奥の少し開けた場所で、小川のほとりに建つ、平屋の一軒家だった。





 カメラに目もくれず、冨士君はポケットからレトロな鍵を取り出した。頭の部分をノブに近づけると、鍵穴が現れる。そこに差し込んだ鍵を回せば、ロックが外れた。私は初めて見るシステムだったけど、お婆ちゃんが好きそうだな、とは思った。

 目で促され、中へと進む。家の中はシンプルだけど、一通りのものが揃っていた。

 冨士君は何よりも先に眼鏡を洗っている。使い慣れた感じがするのは、ここで寝泊まりしていたからなのだろうか。


「ここは、冨士君の?」

「違う」


 目をすがめてこちらを見るけれど、睨んでいるのではないだろう。


「借りてるだけだ。本来なら他の誰かを連れてくるなんてあり得ない。だから、この辺りでは絶対に端末の電源は入れるな。俺も切ってる」

「え……でも、連絡しないと……」


 飛燕もジーナさんもきっと心配してる。


「今夜安全に眠りたければ諦めろ。そして口外するな。誰にも、だ」


 眼鏡をかけ直して念を入れられる。助けてもらったのだし、口ぶりからすれば、私を連れて来たのはイレギュラーのようなので渋々頷く。

 軽く息を吐くと、ずいと目の前までやってきて、上着のチャックに手をかけられた。


「……え」

「返してもらう」


 あ、そうだったと思い出して、ちょっと恥ずかしくなる。いろいろいっぺんにありすぎて、頭が鈍くなってるみたいだ。まだお礼も言っていないことに気付いて、急いで口を開く。


「あの……ありがとう。戻ってきてくれたんだよね?」

「……さあ。たまたまかも」


 ぶっきらぼうな物言いはツバメで慣れていたから、自然に笑えた。


「うん。でも、ありがとう」

「……礼は自分の家に無事帰ってからにしてくれ」


 上着を冨士君に渡すと、代わりのように鍵を渡された。


「水は冷蔵庫に。食べるものも、棚に入ってる。お湯も出るから、風呂でもシャワーでも使えばいい」


 言い捨てるようにして、彼は踵を返した。


「え? どこに行くの?」


 上着を着ながら玄関に向かう背中を追いかける。


「遠回りしたが、ここはさっきの場所から直線ではそう遠くない。バイクが置いてあれば、気付かれる可能性もなくはない。もっと言えば、うっかり二人乗りタンデムをマスコミに嗅ぎつけられて、こっちまで余計な報道をされたくないんでね。明日迎えに来るから、言いつけを守ってのんびりしてろ。逃げ出したければ止めないが、その鍵は失くさないでくれよ」


 いちいちもっともだし、なるべく都合よく考えるなら、広くない密室で一夜を過ごすのを避けてくれたのかもしれない。他の人の気配はないし、事実一人の休暇を楽しんでいたのなら、少々申し訳なくもあった。

 心細くはあったのだけど、私は「はい」と頷いて、手の中の鍵を見つめる。


「……どうして鍵は置いて行くの?」


 戻ってきた時、自分で持っていた方が楽なはずだ。


「家の中にあれば、少なくともその間は他の誰も入ってこられない。そのくらい判るだろう?」


 尋ねてきた人を入れるか入れないか、私が選べる。明日迎えに来るという冨士君であっても。


「それに」


 冨士君は鍵を持った手を掴んで引く。よろめいた私を軽く受け止めながら、その手をドアの方へ近づけた。


「鍵がなければ出られもしない」


 ロックの外れる音がする。


「……明日、迎えに来る」


 もう一度そう言って、冨士君は出て行った。

 バイクのエンジン音が遠ざかるのを聞きながら、私は天井を見上げて呟いていた。


「どっちがいいの……?」


 まだ明るい。知らない場所でも、暗くなる前に大きな道路まで出られるかもしれない。

 でも、飛燕たちが来る前に、久我のあの人に見つかる確率も上がる。

 冨士君に、離れたら連絡入れてくれるよう頼めばよかったな。

 ……彼なら言わなくてもそうしてくれるだろうか。


 一息つき、風にあおられバサバサになった髪と、埃っぽい服を撫でて、私はとりあえずお風呂に入ることにした。




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