50.冨士
次の日の早朝、私は牛乳を買いに行きたい衝動をぐっとこらえていた。
飛燕が「行きましょうか?」と気を使ってくれたけど、横山さんが帰ってきていなかったので、夜中からITルームには飛燕が詰めていたのだ。昨日わがままを言った分、申し訳なさがちらついた。飛燕も、ここにいれば安藤とも情報交換できるし、悪くない配置だろう。
「ジーナ様もこちらに向かっているようですし、もしかしたら移動するかもしれないので、もうしばらくの辛抱ですよ」
飛燕の言う通り、食後のコーヒーを飲んでいる間にジーナさんは帰ってきた。
「遅くなってごーめーん! 慌ただしくて申し訳ないけど、着替えさせて! 飛燕ちゃん、もうしばらくそこお願いね!」
「はい」
シャワールームに飛び込んだなと思っていたジーナさんは、出てきてもジーナさんのままだった。服も髪も違うけど。
時計を確認して、ドリンクメーカーでコーヒーを一杯淹れる。
今日は珍しく地味めの、秘書コーデだった。瞳も薄い茶のコンタクトで、わざわざ伊達眼鏡をかけていた。
「虫食いだけど、ちょこちょこ情報が出てきててね。ええと、まず冨士くんに連絡ついた。会ってもいいけど、場所は指定されて……ここから車で十五分ほどのとこにあるカフェ。お昼頃来られるならって」
「……え? ここから?」
ジーナさんは真顔で頷いた。
「もうひとつ、アマタツもこの辺りにいるみたい。確定じゃないんだけど、久我の上の方の人が土地を持ってるみたいで。みんな考えることはおんなじってことかしらね? マスコミの方は動きがないけど、アマタツも貴女も見えないから、実は駆け落ちじゃないかって噂が出てる。そっち方面からこの辺りのこと嗅ぎ回りに来るのもいそうだから、冨士くんと会った後は移動するわ」
駆け落ちを隠すために婚約中というリークをしたと?
マスコミ側の勝手な憶測なのか、どちらかがそう流させたのか、自分とは無関係な話のはずなのに、どう転んでも都合のいい物語が出来上がっていくことに溜息が出る。
かといってカメラの前に出ていけば、要らないところまでつつかれるのだろう。
慌ただしく荷物の整理をして、飛燕の運転で待ち合わせをしているというカフェに向かった。
民家のような看板も碌に出ていないところで、でも、近づくと豆を焙煎するいい匂いが漂っていた。駐車場には車が一台とバイクが二台。それなりに知られた店なのかもしれない。
待ち合わせだと声をかければ、二階へと案内された。
基本、テーブル席は仕切られていて、簡易的な個室になっている。うちのひとつにスーツの集団がいた。軽い視線を感じつつ、階段を上がる。
少し奥まったところに冨士君はいた。
「はぁい」
軽い調子で手を振るジーナさんに、冨士君は渋い顔をしてみせただけ。
彼の前のコーヒーカップにはまだ半分くらい中身が入っていた。
「えっと……休暇中にごめんなさい」
「それで?」
前置きはいいから、と着席を促して、冨士君はじっと私の方を見た。ジーナさんが人数分のコーヒーを注文してくれる。
「ホテルにでも引きこもってるのかと思ったが。何を聞きたいって?」
「……うん。天野さんの引き抜きのこと、知ってた?」
「そういう話が来たのは聞いた。どうするかまでは聞かなかったが、キャリアアップにはなるかも、とは言ってたな」
するすると答える表情に変わりはない。
「そういう話を伯母様には……」
「社長には訊かれたから話してる」
「今回の……報道については?」
わずかな間に自分の心臓の音が大きくなる。
「知らない。あいつも、知らなかったと思う。そっちこそ、実際はどうなんだ?」
「え? どうして? あるわけないじゃない。断ったのは、私よ?」
「敵を欺くにはまず味方から、だろ。会社に盾突きたいなら、久我に庇護を求めてもおかしくない」
「私、崋山院とか、久我とか、そういう括りで物事を見たくない」
さすがにちょっとムッとして言うと、冨士君はわずかに笑った。
「崋山院の名前に守られながら言ってもな」
返す言葉がない。悔しいけど、事実は事実と認めなくちゃ。今はまだ言葉に重みがなくとも、いつかは自信をもって言えるように。
ふっと小さく息を吐き出して、冨士君は立ち上がった。
「つまり、敵陣に入り込む手もあるんじゃないかと思ったまで」
「カテゴリを変えるだけなら、意味ないわ」
「……そうだな」
そのまま立ち去ろうとする背中にもうひとつ訊いておく。
「天野さんの居場所、知ってる?」
足を止めて、顔だけ振り返って、冨士君は笑った。
「さあ」
どちらの意味にも取れそうで、やっぱり悔しい。
「ねぇ、今どこに泊まってんの?」
また歩き出す前に、ジーナさんの軽い調子の質問が続く。冨士君はぴりっと表情を引き締めて、ジーナさんを睨みつけるようにした。
「プライベート休暇中なんだが?」
「ふぅん……?」
もう答える義務はないというように、冨士君は行ってしまった。
外からバイクのエンジン音が聞こえてくる。
「彼もバイクに乗るのね」
音のする方にぼんやりと視線を向けて、ジーナさんは呟いた。
そういえば、革のパンツだった気がする。駐車場のバイクに上着とヘルメットがかかってた……かな。
トトン、と指先をリズミカルに何度かテーブルに落としたジーナさんだったけど、はふ、と息を吐くとコーヒーを飲み干した。
「確認は後でねー。まず、移動しましょうか」
冨士君の答えはどのくらい信じられるんだろう。そんなことを考えてしまう自分にも嫌気がさしてしまう。少し深く息をして、それから立ち上がった。
階段を下りた時には、もうスーツの一団もいなくなっていて、カウンターでおじさんがひとり雑誌をめくっていた。自分の記事を読んでいるのではないかと疑心暗鬼になって、うつむきながら店を出る。
「紫陽様」
すい、と飛燕の背中が目の前を塞いだ。
はっとして顔を上げれば、さっきのスーツの人たち(だと思う)四人が行く手を塞ぐように立っていた。そのうちの一人、銀縁眼鏡の男に見覚えがあるような気がして、私は一歩下がりながら記憶を手繰りよせた。
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