48.牛乳
飛燕はやり取りの意味がよくわからなかったのか、渋い顔をしたまま首を傾げていたけれど、私たちの間に何らかの意思疎通があったことは確認できたようだ。それ以上無駄に口を挟むこともなく、すっかり暗くなった窓の外を眺めていた。
横山さんは一缶空けると仕事に戻っていった。
「聡いのも善し悪しだね。まあ、だからといって別に私はできないわけじゃないから、お互い節度は保とうね」
と、ごく当たり前の注意を残して。
身内でも信用しすぎるな、というのはツバメにも安藤にも言われていることだ。だけど、この一件から、横山さんのわざとらしい笑顔は向けられなくなった気がする。
テレビは見られるけど、ネットは使えないので、CMの多い番組にうんざりして早めにベッドに入った。当然、早くに目が覚める。ITルームにいる横山さんに軽く声をかけてリビングへと上がったのだけど、そこに飛燕の姿はなかった。不思議に思って、もう一度横山さんのところへ下りる。
「ああ。ちょっと周辺を見てくるって。
「横山さんは、寝たんですか?」
「寝たよ? お気遣いなく」
笑う横山さんのTシャツは一応変わっていたので、それ以上は突っ込まなかった。ついでに、後回しにしていたことを思い出して、聞いておく。
「あの、冨士君って普通に出勤してるかわかります?」
「冨士くん、ね。ええとね……」
画面をフリックして、いくつかファイルを呼び出していく。
「昨日は出てるね。途中で帰ったかもしれないけど……退勤は定時になってる。今日からしばらくは休暇が出てるな」
「休暇……」
私と同じようにマスコミから隠れる必要はない気がするけれど……
「彼も天野龍臣と交友があったからね。念のためかもしれないし、単なる偶然かもしれない。申請は先週出ているようだから。……何か、気になる?」
「気になるというか……天野さんと仲良かったから、何か知ってたのかなって」
「知ってて黙ってたのなら、彼はこの事態を歓迎しているということになるけど?」
「だから、できれば本人から話を聞きたいんですけど……」
画面に目を向けて、ちょっと考え込む横山さんを見ながら、今日からの休暇は本当に偶然なんだろうかとざわざわする。
「どうかな。あちらも天野龍臣を隠したのは昨日からだ。本人も知らなかった可能性もある」
それは、そう思う。頷けば、横山さんはわずかに眉根を寄せた。
「それに、私はよく知らないけど、訊いたところで答えるような人間かな? 崋山院では紫陽さんはレアだよ。まあ、言わないと決めたことは貴女も言わないけど」
「そうなんですよね……」
「……ジーナの方で連絡付けられるか試してみるけど、期待はしないで。アマタツも探しきれてない。たぶん、すぐにとはいかない」
「ジーナさんでもわからないんですか……」
横山さんは深い溜息をついた。
「今回は、だいぶアナログで動かれてるんだよ。人海戦術が必要だとジーナは……タカトもね、ちょっと弱い。久我の本社ビルから車で移動されると、よほどおかしな動きじゃない限り追えないし、途中で車を変えられたらお手上げ。こっちの長所と短所をよく解ってるってことだね」
伯母様への手紙も、冨士君が持ってきた書類と共に入っていた、と思い出してた時、上で物音がした。
「帰ってきたんじゃない? 朝ごはん食べちゃいなよ」
「横山さんは……」
「私はいつも一仕事終えてからだから」
ひらりと振られる手に見送られて階段を上れば、薄手のスウェットにパーカーの飛燕が、買い物袋をテーブルに置いたところだった。
いつもと違う雰囲気に戸惑いつつ挨拶すれば、彼は変わらない様子で振り返った。
「おはようございます。早いですね? まだ寝られていても」
「飛燕はどこに行ってたの?」
「ジョギングに……というか、その
「服は……」
「これは、横山様のを借りました」
安藤もだけど、普段からシャツにスラックスみたいなかっちりしたイメージだったから、なんとなく同じようなものを買っていたけど、もう少しラフなものがあってもよさそう。テニスやバトミントンくらいなら、一緒にプレイするのもいいかも。
今度誘ってみようと考えつつ、飛燕の手元を覗き込む。
「気になるところって?」
袋の中には瓶牛乳とチーズ、プチトマトが入っていた。
「早朝に同じ方へ人が向かうので。一斉にというわけではなかったのですが。ほら、丁度この辺りです。車は入り込めない細い道が左にカーブしてるでしょう? この辺で見切れてしまうんですが」
飛燕は窓を指差して説明してくれた。
自転車やバイクの人はそのまま入っていくのだと付け加える。
「その先に無人販売所がありました。別なところに野菜の販売所も。牛乳は搾りたてと書いてありましたよ? 瓶は返さなければいけないらしく、その場で飲む方も多いようです」
「お金は?」
飛燕は、現金も持っていた気はするけど。
「いくら、と決まった感じではなかったですね。値段もついていなかったので、備え付けの箱に寸志程度入れている、みたいな。行く前に横山様に聞いていたので、お札を一枚入れてきました。飲まれますか?」
「そうね。美味しそう」
飛燕は頷いて、一本を私へ差し出し、もう一本は冷蔵庫へ入れた。プチトマトは軽く洗ってスライスしたチーズと共に紙皿に盛ってくれる。
「一口だけ先にください」
紙コップを手にそう言われたので、言われた通りに少しだけ注いであげる。
「……大丈夫ですね。ええと、美味しい、です」
ぎこちない飛燕の成長を微笑ましく思いながら口にした牛乳は、本当に濃くて甘みのあるものだった。
窓の向こうでバイクが一台そちらへ向かって行くのが見える。後で上がってきた横山さんに聞いてみたところ、結構人気で、日中より早朝の方が人を見かけるらしい。
「何度か飲んだことあるよ」と言いつつ、上に溜まったクリーム状の部分をコーヒーに入れて、満足気に微笑んでいた。
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