40.自覚

 しばらく飛燕ひえんと一緒に片づけをして、やっと中に入ってきたと思ったら「風呂」と通り過ぎていってしまう。飛燕も「下準備をしておくので」と、通り過ぎようとしたので、やっぱり座っているだけなのが落ち着かない。


「……ツバメ、それ、洗濯しようか」


 立ち上がれば、上着を脱いだツバメが顔だけ出して首を振る。


「いいって。風呂で一緒に洗っちまうから。先に食ってていいぞ」


 行き場をなくした身体を持て余していると、飛燕が笑いながらちょっと戻ってきた。顔を寄せて声を落とす。


「冷凍庫にビールを一缶入れてありますので、上がってきたら出してあげてください」

「わ、わかった」


 お風呂と言っても地上のように風呂桶にお湯をためて入れるような仕様じゃない。水は貴重なので、シャワールーム程度の広さに洗浄成分入りの蒸気を満たして汚れを浮かせ、タオルで軽く擦る程度の洗浄をして最後に流す、くらいの工程だ。排水は分解、殺菌を経て再利用される。

 それを思うと温泉で多少ツバメが浮かれていたのは、全然おかしいことじゃなかったのかも。

 ひとりで何か食べる気にもならず、アンドゥもどこかに行ったままなので、ぽつんと座りながら、ツバメが作業着を擦り洗いしている音をぼんやりと聞いていた。


 一人暮らしを始めて、自分のパターンができてくると、誰かがやってきてそれを崩されるのは少々煩わしくなる。ましてやツバメはこの暮らしが長い。私が何か手伝おうとする方が迷惑なのかもしれない、とは、重々解っている。

 それでも、何かしたくなるのは……

 ガタン、と洗濯機のふたを開ける音がした。ハッとしてビールを取りに行く。戻ろうとしたところで、ツバメと鉢合わせた。上半身裸で、肩にタオルをかけたままのツバメに「はい」とビールを差し出す。


「おっ」


 珍しく、嬉しそうに目を輝かせたツバメだったけど、受け取ろうと手を伸ばして、一瞬妙な顔をした。ムッとしたような、呆れたような、投げやりなような。

 ひったくるように缶を持って行くと、妙に明るい声を出しながら口を開ける。


「ちょうど切らしてたんだ! ありがてぇ!」

「……よかった。冷蔵庫にも入ってるから。それは飛燕が冷凍庫で冷やしてくれたの」

「あいつは、その点だけはいいになるな!」


 軽い足取りでテーブルに向かい、箱を適当に開いてポテトをつまむ。


「なんだよ。食ってていいって言ったのに」

「うん。せっかく誰かがいるなら、一緒がいいなって」


 私も戻ってソファに腰を下ろす。胸元で揺れたネックレスにツバメの視線が落ちた。


「……跡取り君の贈り物」


 缶を持った方の手の指を一本立ててニヤつく。

 情報が筒抜けなのは解っているけど、それでもやっぱり、言ってないことを指摘されるとドキリとする。


「そ、そう。かわいい、でしょ?」

「さあ。俺はそういうのはわかんねーから。順調なようでなにより。俺がこんな格好でも動じないくらいには、なったのかねぇ?」

「えっ? 天野さんとは、何もっ」


 何も、なくはなかったと思い出して、思わず頬に手を添える。体温が上がったのがその手にも伝わってきた。

 ツバメはわざとらしく視線を逸らして、背もたれに寄り掛かった。


「み、見慣れたのは、飛燕が洗浄のためによくそうしてるから……!」

「……あいつは何を教えてんだよ」

「お、教わってるわけでもなくて!」

「……あっちで待ってるんだったか。やっちまうか」


 置かれたビールはまだ中身の入っている音がした。

 立ち上がるツバメを、つい、追いかけて引き止める。


「……お嬢さん」


 掴んだツバメの手を頬に添えた。


「嫌じゃなかったんだろ?」


 するりと頬を滑る感触にほっとする。ほっとしてしまう。

 同時に、どうしてそこまで知っているんだろうと、泣きそうになる。


「やめたいなら、やめちまえ。いちいちこんなことしてらんねぇ。俺は雑巾じゃねぇぞ」


 そんな風に思ってるわけじゃない。

 じっと見上げたら、ツバメは顔ごと逸らして目を背けた。


「……じゃあ、ツバメがしてみてよ。それでも、誰かに拭ってほしくなるのか判るから」

「――っ! わか……わかったらどうなんだよ? 俺は試されるなんてごめんだね。それで、やっぱり違いました、なんて言われて、笑って送り出せるほど人間出来てねぇんだよ。クズだからな!」

「ツバメは屑じゃないよ。屑だったのかもしれないけど、そこから芽を出して懸命に咲こうとしてるお花だと思う」

「んなわけあるか。せいぜいウジ虫からハエになれるかどうかってとこだし、そういう話じゃねえ! ちょっと考えればわかるだろう? お嬢さんはあいつに抱かれた後に、同じように俺に抱けって言うのかよ!?」


 言われたように考えてみる。全然、想像がつかないんだけど、それでも。


「……言う、気がする」

「……ふざっけんな!! 俺は、お下がりなんざ要らねえんだよ!」


 さすがにそれがどちらにも酷いことだというのは解る。ツバメが怒るのももっともだ。

 だから、つまり、私は。


「だったら……先にツバメのものにしてよ……」


 そういうこと、なのだろう。

 わかってもわからなくても、きっと納得はいくのだ。

 まだ湿った肌に頭を預ける。あんなに怒鳴っていたツバメが息も潜めているのがわかった。

 長い長い数秒。


「あぁ、くそっ……ムカつく!!」


 ぐいと引き剥がされ、胸元に熱いものが触れた。ちょうど、ペンダントトップの辺り。濡れた髪が頬をなでて、目の前がちょっとチカチカする。

 胸の熱さはじんわり体の奥に移っていって、じんじんと居座った。

 熱さに鈍い痛みが重なっても、不快じゃない。反射的にぎゅっとツバメにしがみつけば、熱さは離れていった。

 濡れた髪の簾の向こうから三白眼が覗く。目が合うと、眉を顰められた。


「そんな顔してんじゃねぇよ! だいたい、誘惑しに来たんなら、他の男にもらったもん身に着けてくるとかありえねぇ!」


 軽く押しやられ、ふらついた体はソファに沈んだ。

 顔が熱い。どんな顔をしてるんだろう。

 顔と胸元に手を当て、見下ろしてそっと確認する。桐人きりひとさんにつけられたのよりもう少し薄い赤色の痕がついていた。


「面倒なお子様はいらねぇよ。崋山院大企業に絡めとられんのもごめんだ。お嬢さんはオーナー、俺は雇われ人。忘れるんじゃねーよ!」


 踵を返して、ツバメは奥の部屋へと入っていく。


 飛燕が横になっている台の上にアンドゥがいて、ツバメを見上げていたのも、


『ツバメ』

「うるせぇ」


 そんな短い会話があったのも、私は知らなかった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る