25.夏池

 一面の星空は、すぐにまた雲の多い日中の空に戻ったけれど、春の花が咲きそろうこの場所で、昼も夜も自在に操れるのは『幻のエデン』と呼ばれるに相応しいかもしれない。


「ここが春なら、次は夏なのか?」


 ツバメはポケットに手を突っ込んで歩き出している。空にはあまり関心がなさそうだ。


「そうだ」


 私も紅余ホンユーさんに促され、ツバメの後を行く。

 少し歩けば小川が流れていた。さすがにメダカはいないようだが、小川の周辺にはレンゲが赤紫の花を揺らしている。ブロック一つ分の橋がかかっていたけれど、ツバメは無造作にそれを跨いで行った。

 小川の向こうには芝桜やチューリップがモザイク画のように配置されていて、藤棚の下にはベンチが置いてある。本を片手にコーヒーを飲むのもいいかも。

 先に行ったツバメが足を止めたので、それに並ぶ。目の前には淡いブルーの八重咲の紫陽花が咲いていた。


「見栄えはいいよな。星にも増やすか?」


 プシーにも同じようなのはあったと思うけど、たくさんある株の中での数は多くない。たぶん、お婆ちゃんか揚羽さんが昔ながらの紫陽花が好きだったのだろう。


「あってもいいけど、私はあの景色が好きだから、新しく植えるなら別の場所にしてほしいかな」


 ツバメは少し得意げに口の端を上げて「了解」とまた歩き出した。

 すぐ向こうに入ってきた時と同じような石のアーチが見える。ツバメに続こうとしたとき、背後でヒバリの声が聞こえた。


「さっき、鶯も鳴いてましたけど、あれはどこからか音を流してるんですか?」

「流すこともあるが……」


 紅余ホンユーさんはツバメをちらりと確認したけれど、すぐに一度首を振って続けた。


「中国の企業と共同研究の名目で実験体を放してる。何種類かいる昆虫もな」

「お嬢さん、それ以上突っ込むな。帰してもらえなくなるぞ」

「気になるなら後であいつに訊くといい。大雑把なとこは知ってるだろうからな。もちろん、不用意に吹聴してもらっては困るが」

「なんだよ。サービスいいな」

「誤魔化したってお前がベラベラ喋ったら一緒だからだよ!」

「なんでベラベラ喋ると思われてんのかねぇ……安心しな。お嬢さんの口の堅さは天下一品だ」


 背を向けたツバメを苦々しい顔で睨みつけて、それから紅余ホンユーさんはしばらくの間じっと私を見下ろしていた。


「……えっと、あの?」

「……その先が『夏の庭』だ」


 飛燕が傍まで来ると、紅余ホンユーさんは何事もなかったように案内を続けた。




 石のアーチを潜ると、まずセミの鳴き声が降ってきた。同時に夏特有のムッとした空気に触れる。

 緑の色は濃く、降り注ぐ日差しは心なしかギラついて見えた。

 ラベンダーやルピナス、ひまわりなどカラフルな配置に目を奪われがちだけれど、合歓ねむの木や桔梗、ツユクサに待宵草なんかもごく自然に植えてある。

 ここには先ほどの小川よりも広い(と言っても幅一メートルほどだけど)川が流れていて、ツバメは道を外れてその川に沿って行ってしまった。


「ツバメ?! どこ行くの?」

「先に池がある。道沿いに行ってもそう変わらないから、すぐ合流するだろう」


 気持ちだけ先を急げば、紅余ホンユーさんの言った通り大きめの池に出た。蓮や睡蓮が浮いていて、ほとりにはホタルブクロが群生していた。ツバメはしゃがみこんで池を覗いている。気配を感じたのか、すっと片手を上げて空を指差した。

 ふぅ、と紅余ホンユーさんが小さく息をついて端末を取り出す。

 その間にツバメは私を手招いた。池に何かいるのかと隣でしゃがんでみれば、池を覗き込む前に辺りが暗くなった。また夜に? と、顔を上げたら、ツバメが顔を寄せて唇の前で人差し指を立てていた。不意打ちを喰らって、心臓が変な音を立てる。ゆらりと傾いた体をツバメの腕が引き止めた。


 何、と訊くまでもなく、ほわりと淡い緑の光が明滅した。

 ツバメから意識をもっと広く向ければ、そこかしこで光っては消えて流れていく。今までまるで人形のようにおとなしくしていたアンドゥも、揺れる光に少しだけ首を伸ばした。

 軽く腕を引かれてもう一度ツバメに視線を戻すと、ツバメは近くのホタルブクロを指差した。

 釣り鐘型の花の中で緑の光がほわほわと光量を変える。ちいさなランプのようでなんとも可愛らしい。


「素敵……」


 思わず囁けば、ツバメが笑ったような気がした。暗くてよく見えなかったけれど。

 パッと眩しくなって、私もツバメも一瞬目を閉じた。呆れた紅余ホンユーさんの声が響く。


「昔よりは、女の口説き方上達したんだな。そうそう私的に使われても困るんだが」

「そんなんじゃねーよ。蛍がいるってことは、見学会の時だってやる行程だろ?」


 ツバメは小さく舌打ちして、私を引き起こしながら自分も立ち上がり、もう興味もないって顔して行ってしまう。

 私は――もう少し見ていたかったけど、突然やってきた部外者にそこまでしてもらうのは、確かに申し訳ない。

 未練たらしく蛍たちが飛び交っていた水の上を振り返って、それからツバメを追いかけた。


「ツバメ、蛍は星には難しい?」

「蜂もだいぶ苦労したからな……わからんが、簡単ではないだろうな。綺麗な水が必須だし……まあ、今見たやつなら、金さえ積めばどうにかならんこともないだろうが」


 意味ありげに、ツバメは紅余ホンユーさんを振り返って言う。


「ここで商談はしないぞ」

「俺もしたくないね」

「あ、えっと、ごめんなさい。そこまで本格的に考えたわけでは……」


 商談なんていう単語が飛び出したので、私は慌てて否定する。


「だろうな。まあ、余裕が出来たら考えてもいいんじゃないか」


 にやにやしながら踵を返しかけたツバメに紅余ホンユーさんは大股で歩み寄った。


「お前、本当に庭を? 蜂蜜を取ってるって? エンジニアの才能は腐らせてるってのか?」


 やや意外そうにツバメは動きを止めた。


「だから、最初から言ってるだろ? は別に腐らせてるわけじゃない。副業として役に立たせてるよ。な範囲でな」

? お前が、まともに……」


 紅余ホンユーさんの声が一段低くなった。




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