13.敬称
疑問を口に乗せようとした私の視界に、アンドゥが軽やかに飛び石を渡ってくる姿が入った。咄嗟に冨士さんを押しやるようにしてアンドゥに向き直る。冨士さんの手が私の身体から離れきる前に、アンドゥはその手に飛びついた。
「……! い、たっ」
がぶりと噛みつくアンドゥを慌てて抱え上げる。さすがに血が出るほどではなかったけど、歯形はくっきりついていた。
「あ、えっと、ごめんなさい! 冨士さん! やんちゃモードになってて……」
こらって怒ろうと思ったのに、アンドゥは近づいた私の鼻先をぺろりと舐めた。気が削がれる。
「……それ」
「えっ」
不機嫌な声にどぎまぎする。噛まれた手を軽くさすりながら、眉間に皺を寄せて冨士さんは続けた。
「やめてくれないか。俺は日本一高い山じゃない」
「……え?」
身構えていたことと全然違うことを言われて、一瞬頭が真っ白になる。天野さんが笑いながら軽やかに飛び石を渡ってきた。
「あー。俺も言われたやつ」
差し出された指に、アンドゥは猫パンチを喰らわせた。
「え……あの、でも」
「嫌がらせか?」
「やっ、ちがっ……冨士、くん?」
まあいいだろうというように鷹揚に頷いたのを見て、天野さんが手を上げた。
「はいはいっ! ついでだから、俺も下の名前で呼んでよ」
「お前は調子に乗るな。面倒が増える」
「いいじゃないか! こんな機会はもうないかもしれないんだぞ! ここに居る間だけでもいいからさぁ」
期待のこもった目で見られると、なんだか弱い。
「えっと……龍臣さん?」
ぼっと音を立てたかのように天野さんの顔が赤くなった。両頬に手を当てて、やべぇ、なんて呟いてる。
「お、思ったより破壊力……」
そわそわとしだした天野さんは、そのまま突然駆け出した。藤棚の方へ登っていく。
その背中を見送りながらふっと小さな息を吐き出して、冨士君はぼそりと呟いた。
「阿呆……」
それから冨士君も彼の後を追う。
「あの、さっき、またって……」
慌てて思わず出た言葉に、冨士君は歩みを止めずに視線だけよこした。
「……覚えてないのか」
私も呆れられたような気がして、それ以上は聞けなかった。そっとアンドゥを窺ってみたけど、言葉を交わせないと何を考えてるのかさっぱりわからない。潔く諦めて、アンドゥを抱えたまま、私も冨士君の後について丘を登ることにした。
丘の頂上付近に藤棚があって、ゆるりとカーブした花のトンネルになっている。東屋はそれより少し下に位置していて、風に揺れる藤を下から眺め上げることができた。振り返れば、対岸の枯山水もよく見え、少し左手奥には池に注ぐ小さな滝もあることが分かった。
手早く何枚か写真を撮っておく。
「せっかくだし、一枚撮らせてくれない?」
天野さんが藤を指差しながら控えめに訊いた。
「ネットに流したりしないでくださいね?」
「しないよ! そんなもったいないこと!」
笑いながら藤の下に入った私を、天野さんは少し屈んで何枚かシャッターを切った。抱えていたアンドゥもなんだかおすまししてる。
「一枚じゃないんですか?」
少しいじわるな質問をすれば、彼は黙ってこいこいとジェスチャーした。
「一番いいの残すから」
見て、と今撮ったものをフリックしていく。
「二枚目か、四枚目かなぁ」
他のを私も見ている前で削除する。残った二枚も行って戻って「どっちがいい?」って私に訊いた。どちらもそう変わりはない。
「最初のかなぁ。藤の花に当たる光が綺麗、かも」
うん、と彼は頷いて後の方を削除する。
「ありがとう」
嬉しそうに笑う顔に、なんだか少し恥ずかしくなった。
照れ隠しに冨士君と天野さんを二人で撮ってあげようと振り返った時、どこからか声がした。
「アンドゥ!」
ピンと立った耳に伸ばされた首。呼ばれてアンドゥは私の手の中から飛び出した。アンドゥがこんな風に反応を示すのは、一人だけのはず。
「あっ」と追いかけそうになる天野さんの腕を掴んで引き止めながら、アンドゥの行き先を目で追う。
「紫陽さん?」
「たぶん、大丈夫。呼んだのはきっとアンドゥの
丘の下の方、建物近くに赤いシャツが見えた。全速力で丘を駆け下りたアンドゥはツバメに飛びつくようにジャンプする。ツバメはその体を捕まえて、勢いのまま建物の方へと放り上げた。アンドゥの行く先には、男の人がひとり、バルコニーから驚いたようにツバメを見下ろしていた。
え? と私も息を飲む。
「うわっ」と声がして、男の人とアンドゥは見えなくなった。でも、すぐにアンドゥはそこから飛び出してきた。
落下する猫を待ち構えていたツバメがキャッチする。その口に咥えられていたものを一通りチェックしたところで、バルコニーの男の人がすごい剣幕で身を乗り出した。
「何をする! ……あっ、か、返せ!!」
その人はツバメの手にしたものを見て、自分の手を確認してから怒鳴りつけた。ツバメは素知らぬ顔で「ほらよ」とそれを投げ返す。たぶん、端末か何か。男の人はそれを掴むと部屋の中に引っ込んでいった。
ツバメはちょっとにやけながら、ゆっくりとこちらへ登ってくる。
「え……彼、知り合い?」
天野さんがちょっと引き気味に、それでも半歩前に出てツバメの視界から私を遮った。
「ツバメは……」
「
いつの間にか横に並んだ冨士君の声にびっくりする。
「え。そうなの? ってか、冨士君、紫陽さんのこと呼び捨てなの?!」
「尊敬してるわけでも、ライバルでもない年下の親戚に無駄な敬称付ける意味がない」
「いや……もっともなような、そうじゃないような……冨士君らしいといえばそうかもだけど……」
私も何とも言えずに苦笑いしているうちに、一足先にアンドゥが足元まで駆け戻ってきた。なんだか自慢げな顔に、屈んで撫でながら褒めてあげる。
「大きいとこって殺伐としてるのな」
「そうそう。あんま、関わんない方がいいぜ?」
実感のこもりにこもったツバメのセリフに、天野さんは表情を引き締めてからゆっくりと振り返った。
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