12.散策
一階に下りると、もうロビーに残っている人はほとんどいなかった。ジーナさんの姿もない。
立って外を眺めていた天野さんが気付いて手を振ってくれた。
「お待たせしました。冨士さんは……」
天野さんは視線だけを動かす。冨士さんは、丸い柱の陰によりかかって腕を組んでいた。
「じゃあ、行こうか……あれ。ボディガードさんは?」
「天野さんと冨士さんが一緒なら大丈夫でしょうって。どこかでは見てるから、と」
「い、意外とゆるい?」
「元々そんなにきつくないんですよ。最近がちょっと異常だっただけで。ジーナさんの主催でもありますし、参加人数も身元もわかってる。ある程度の信頼があるんです。大丈夫ですよね? 頼りにしてます」
天野さんと冨士さんを交互に見ながら、少々おどけてみせると、天野さんはビシッと直立して大袈裟に頷いた。
「も、もちろん!」
冨士さんは追い払うような仕草で動けと指示しながら、ゆっくりとこちらにやってくる。
「能天気で羨ましいな」
「はい。ご迷惑でしょうがよろしくお願いします」
軽く頭を下げる私の前を冨士さんは立ち止まらずに先に行った。大きなガラスの右端に立てば、扉一枚分のガラスが数センチ外に飛び出して、スライドする。水と緑の香りが運ばれてきた。
ちょっと肩をすくめた天野さんにどうぞと促されて、私は冨士さんの後に続いた。
「あ、あと、猫を探してるので見かけたら教えてください。グレーの毛の短い猫です」
冨士さんはちらとだけこちらを向いて、わかったと頷いた。
「
「私のではないんですけど、一時期預かっていたので仲はいいんです。人見知りするので教えて下さればいいですから」
花盛りのツツジや次の出番を待つ紫陽花の植え込みを抜けると、正面に池が見えてきた。池から右手の方、ホテル正面に向かって流れになっているようで、散策路は池沿いに左右に分かれていた。
冨士さんは一度立ち止まって、すぐに左の方へ足を踏み出した。続けば、池の中央付近に中島がいくつか見える。水の中には白と
池の縁にはアヤメかカキツバタ。池の向こう側には白砂と庭石が配置された枯山水もあるのがわかる。端末を取り出して、何枚か写真に収めてみた。
「紫陽さんは庭の方が興味あるんだね」
冨士さんは少し先を行って建物から庭全体をぐるりと見渡していたけれど、天野さんは振り返ってホテルの造りを眺めていたようだ。
「天野さんは建物の方が好きですか?」
「そうだね。もちろん、庭を含めて全体のデザインを考えるんだけど、どちらかといえば建物の方に惹かれちゃうかな」
庭を見ようって言ったのにね、と彼は朗らかに笑った。
「私は、庭のことにも興味を持ったのは最近で。星の庭がとても素敵だったから、ちゃんと引き継がなきゃって。経営の方を学んでるんですけど、最近は庭の方の勉強がしたくなっちゃって」
「あ。割と本格的に、なんだ。へぇ。いいんじゃない? いつか俺の建てた家の庭を整えてよ」
「天野さんが覚えててくれたら、いいですよ」
「本当に? よーし。絶対忘れないから!」
「頑張って勉強しますけど、気長にお願いしますね」
「う。俺も、せめて冨士君くらいにできるようにならないと……」
天野さんが前方の冨士さんの方に視線を投げたので、つられて私もそちらを向いた。ちょうど冨士さんもこちらを向いて、こいこいとジェスチャーなどする。
彼はもう中島にかかる橋のたもとにいて、すぐに視線を島の方に戻した。
なんだろうと近づいていく。
少し離れたところからでは橋の影になって気付かなかったけれど、橋の向こう側に中島へと飛び石が並んでいた。五つほど並んだその真ん中にグレーの猫が水を覗き込んでいる。
「アンドゥ?」
脅かさないように控えめに声をかければ、耳だけがこちらを向いた。水中の鯉に夢中なのかもしれない。
「変わった名前だね」
「実は本物じゃなくてネコロンなんで。ほら、中川さんも推してる」
「ああ! そうなんだ。うわ。遠目じゃわからないな」
「近くでもほとんど判りませんよ。すごいです」
アンドゥ、ともう一度声をかけると、灰色の猫は迷惑そうにちらとこちらを向いた。ぴょんと飛び石をひとつ向こう側に渡って、また水の中を覗き込む。
通信が切れているからなのか、安藤がそれらしく演技しているのか全く分からない。
「忘れられてるかも」
苦笑すれば、冨士さんが天野さんをつついた。
「龍臣、橋を渡って向こう側へ回れ。そっとな」
「了解っ」
一応ひそひそと交わされる会話に、アンドゥの耳は反応している。橋の上をなるべく静かに渡っていく気配にも耳を動かしていた。逃げるつもりなら、もう動いてるはずよね。天野さんが橋を渡り切ったタイミングで、冨士さんはわざとらしく大きな声を出しながら岸まで近づいた。
「ほら、来いよ」
アンドゥは警戒も露わに逃げ出す体勢になった。冨士さんが飛び石に足をかけようとしたところで身をひるがえし、駆けていく。回り込んできていた天野さんに気付いたけれど、その足元で左右にステップしてフェイントをかけ、横をすり抜けようとする。
「あ! アンドゥ、待って!」
本当に判ってないのか、実は違う猫なのか心配になって、私はその後を追おうと冨士さんの横から最初の飛び石へと軽くジャンプした。
「……なっ」
小さな驚きの声と共に、少しのあいだ宙に浮いてた体が引き戻される。
「え……きゃあ!」
自分の予想した動きとは違った動きに驚いて、思わず声が出た。引き戻された身体を受け止めたのは、もちろん冨士さんで。心臓が早くなったのは、密着した体のせいではない……と思うのだけど。
「ふ、冨士、さん?」
「また、落ちるつもりか?」
え? またって、どういうこと?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます