03.名刺

 ホールから出て、庭に面した一階ロビーで私たちは一度立ち止まった。邪魔にならないように少し端に寄って、彼の差し出す名刺を受け取る。


天野あまの龍臣たつおみといいます。営業にいますが、後々はデザインに関われればと……あの、こういう、お仕事で?」


 思わず私も飛燕ひえんも彼を凝視してしまう。や、あの、などと口ごもってしまう天野さんに他意はないようだ。


「……いえ。学生ですので。父の知り合いが出展しているとチケットをくださったので……」

「そ、そうなんですね。じゃあ、本当に偶然なんだ。ちなみにどなたですか?」

「中川さんです。中川、テツジさん」

「ああ! 猫好きの! ピシッとまとめた中に抜け感を作るのが上手い方ですよね。お父様は、やはり建築関係で?」


 再び固まってしまった私たちに、天野さんはさすがに戸惑いの顔を見せた。


「……あの……僕何かまずいこと訊いてますか?」

「まずくは……冨士さんに何も聞いてませんか?」

「冨士君の知り合いなの?! え!? どういう……? まさ、まさか彼女とか、いいませんよね!?」


 驚きと疑問と焦りを順番に表情に乗せる様子は忙しい。けれど、昨年からの騒動で知らない人からも声をかけられるようになった身としては、あれだけ騒がれても関心を持たない人がいる、ということに少しほっとしてもいた。

 きちんと自己紹介してしまった方がいいのか、迷う。

 そうしているうちに、彼ははたと飛燕に目をやり、少し青ざめた。慌てたようにまだ私の手にしていた彼の名刺を奪い取られる。

 ああ、崋山院の人間はやはり嫌いなのかと、なんとなく寂しい思いがよぎった。


「やっぱり、いいです。何も言わないで。あの、その代わり、に来てもらえませんか。ここなら多分大丈夫だから……冨士君からじゃなく、ちゃんと僕からお礼がしたいので、ランチ、奢らせてください。一度きりでも、お願いします!」


 名刺に何か書き殴って、頭まで下げて、両手でもう一度差し出される。

 その勢いと必死さに少し怯んで飛燕に目をやれば、彼は名刺を見下ろしてわずかに眉をひそめた。


「……飛燕」

紫陽しはる様次第です」


 平坦に言われて、私も名刺を見下ろしてみる。

 「Cachette」の文字に続けて数字が並んでいる。電話番号のようだ。飛燕はすぐ検索しているだろうから、何も言わないということは問題ないのだろう。

 あまりそうしていても目立ってしまう。悪い人には思えなかったので、私はその名刺を受け取った。

 彼が、弾かれたように頭を上げる。


「いつにしましょう」

「は……あのっ……あ、えと……そ、そこに電話するか、お店のサイト経由で「アマタツ」で予約を入れてください! いつでもいいです。全力で合わせますから!」


 カッと顔を紅潮させて、少し涙目で言いきると、彼は一礼して足早に会場へと戻っていった。すれ違ってから「マジか」と震えた声がした。

 彼の背中が見えなくなってから、飛燕に確かめる。


「演技じゃ、ないよね?」

「おそらく」

「私だと知らなかったよね?」

「私の襟章を見て顔色を変えましたから、そうなのでしょう。どう判断すべきか、正直わかりかねます」

「飛燕でもそうなのね……ご飯くらいは問題ないんでしょう?」


 飛燕はちょっとだけ口ごもった。


「場所的には、おそらく最良の選択かと」

「含みのある言い方。何かあるの?」

「ジーナさんの店です」

「え?」


 一瞬、意味が解らなかった。


「『情報屋』としての拠点の店です。以前いただいた名刺を読み込むと、そこに繋がります。なので、完全中立、先に要請しておけば、会話内容が外に漏れることもないでしょう。そこを選べるということは、彼もある程度は人間のはずです。それにしては情報収集に偏りがある気もしますが……」

「ジーナ、さんの?」


 名刺をまじまじと見つめてしまう。それは大丈夫、なんだろうか。


「以前ツバメも言ってましたが、仕事として依頼して利用するならあまり問題はありません。その線引きは怖いくらいにきっぱりと引く方ですので」


 がそこまで言うのなら、そうなのだろう。

 複雑な思いが無いわけではないが、あれ以来確かに偶然会うこともない。横山さんも言葉通りおとなしくしているようだし。


「アンドゥはツバメのところだし……飛燕は……大丈夫?」

「ガードモードなら大丈夫でしょう。あまり心配なら、そのままにする手もありますよ?」

「うん。でも久我のこと知るチャンスかもしれないし。崋山院には敵性企業でも、私には違うかもしれないし……」


 飛燕はそれ以上何も言わずに黙って頷いた。

 会場に戻るのは何となく気まずくて、そのまま出口へと向かう。


「ツバメにも一報入れておきますね」

「えっ。ななな、なんで?!」


 思わず飛燕の袖を掴んだ私に涼しげな眼差しが向けられる。


「ジーナさんが絡んできますので、一応」


 こういう時、安藤なら表情で冗談か真剣なのかわかるのに。飛燕では微妙なニュアンスがわからない。やめてと言うには正当な理由なので、私は不自然に顔を背けると、小さくため息をついた。

 家に帰り着いて早々、予約を入れてしまう。

 今日の明日でさっさと、という訳にもいかないので二週間後にした。飛燕は淡々と天野さんについてわかったことを教えてくれる。同じようにあちらも私のことを調べてるんだろうなと思ったら、少しだけ気が重くなった。




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