第三部 月に叢雲風に花
01.譲水
お水を選んだのは特に理由があったわけじゃなかった。しいて言うなら、選ぶのが面倒だったから。
自販機の画面表示が「売切れ」に変わった瞬間、後ろで「あぁ!!」と、声がした。
思わず振り返ると、べっ甲縁の眼鏡をかけて、この世の終わりみたいな顔をした男の人が、連れの男性に小突かれていた。
「水……」
未練たっぷりの呟きに、自分の手の中のペットボトルに視線を落とす。可愛らしいネコミミキャラがにっこり笑っていた。
「……馬鹿」
連れの男性の方の呟きは苛立ちも露わなものだった。そのままもう一人の腕を引いて列を離れようとするので、思わずペットボトルを差し出した。
「あ、よかったら、どうぞ。私は何でもよかったので」
「行くぞ――」
「本当にっ?!」
大袈裟なくらい表情を明るくして、連れの言葉も腕も振り払いながら彼は私に転げるようにして近づいた。
そんなに水が飲みたかったのかな、と少し可笑しくなる。口角が上がるのを抑えられないまま、ペットボトルを手元に押し付けた。
「はい。どうぞ」
「ぅわ。あ……ありがとう! 本当に、ありがとう!!」
手を取られてぶんぶんと上下に大きく振られる。
ちっ、と舌打ちが聞こえたのは気のせいだったのかな。背後でガタンという音がしたかと思ったら、目の前に緑茶のペットボトルが差し出された。思わず視線を上げて、飛び込んできた不機嫌そうな顔に既視感を感じてわずかに固まる。
「とりあえず、迷惑だから場所空けろよ」
私にではなく、水を渡した彼に言っているのだが、冷たい棘が私にも向いている気になるのはどうしてだろう。小さく揺らされるペットボトルを受け取ると、彼は先ほどと同じように連れの腕をとってさっさと歩きだしてしまった。
「……お節介」
すれ違いざまにぼそりと落とされた言葉に、お礼の言葉が引っ込んだ。
え? 何?
水を渡した彼は、身を捩って頬を紅潮させながら振り返り、「ありがとう!」と手を振っている。いつまでもそうしていそうな雰囲気に、連れの男性が力ずくで前を向かせていた。
あまりに対照的な二人を呆然と見送る。
「な、なんだったんだろう。お茶のお礼、言い損ねちゃった」
先に避けて待っていた
「映画館限定のアニメコラボ商品だったようですよ。それと……それをくれた方、
「え!?」
揚羽さんの隣で
☆
私の母、揚羽さんとは昨年の夏以来ぼちぼちと交流が続いている。こうして一緒に映画を見るようになるとは、去年の今頃には思いもしなかった。
たまたまなのか、やはり親子だからなのか、ある程度の好みが一致しているので、年上の友達と楽しんでいる気分になる。普通の親子の在り方とは違うかもしれないけど、これはこれでいいのではないかと思っている。
父と母はまた一緒に暮らし始めたようだけど、私はそのまま一人暮らしを続けることにした。家族で暮らすのが嫌なのではなく……二階下にあるツバメの部屋と離れ難かったのだ。ツバメはもうそこにはいないのだけれど。
パンフレットを手に近くのカフェに入って、春の日差しをガラス越しに見上げれば、揚羽さんは意味ありげに笑って少し身を乗り出した。
「
小さく跳ねる心臓をどうにかなだめすかす。
「恋愛ものなんて、隣でいびきをかかれそう。ツバメと見るなら、アクションものとかかなぁ……」
「ああ、そうね。
「解りやすいでしょう? 今日のはお庭が見たかったので、大満足です!」
庭師とお嬢様の身分差恋愛ものだったけど、豪邸のイギリス庭園が全編にわたって使われていて、今回のパンフレットも庭の解説が欲しくて買ったのだ。
ひとしきり二人で指を差し合いながら話が弾む。
一息ついたところで、揚羽さんが遠慮がちに聞いてきた。
「冨士君って……
「あっ、そうです。大きな集まりでしか顔を合わせないし、伯母様のとこと違って表立った活動もしてないのでとっさに私もわからなくて……個人的なお付き合いもないし、以前は、眼鏡をかけていたんですけど。失礼しちゃったかな……」
お婆ちゃんのお葬式の時も、確か。黒縁の眼鏡は彼のトレードマークで、それだけで彼を識別していたかもしれない。今は何をしてるんだったかな。いとこの中で歳は一番近いけど、五歳ほど上で無口で真面目なイメージなのよね。
「必要ならばデータを開示しますが」
隣の飛燕が淡々と告げる。ボディガード仕様の彼は表情が乏しいのでクールな印象が強い。ようやく慣れてきたけど、中身は安藤のはずなのにと最初はかなり戸惑ったものだ。
「え。大丈夫なの?」
「一般に知られている程度のことしか開示しませんので」
揚羽さんがおろおろするのを見ると、やっぱりあんまり普通じゃないんだなと自覚する。
言えば、『Kazan』のデータベースにあることくらいは全部手に入るんだろうけど。
「今何をしてるかくらいは知っておいた方がいいかな……お礼も言えないなんて言いふらされたくないし」
「……まあ、彼もあのアニメ映画を見ていたなんて
「え? 冨士さんアニメを見てたの?」
それは割と意外で、状況を考えればわかりそうなことなのに、思いもよらなかった自分に少し呆れる。
「お友達に付き添ってきたのかもしれませんが……」
「あ、そうね。そういうことも、あるわよね」
でも、飛燕はクールな顔のまま、意味ありげにちらりと揚羽さんに視線を流したのだった。
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