40.紫苑

 揚羽さんはもう一度席を外して落ち着きに行った。

 私は聞いた話を頭の中でちゃんと整理する。


「……揚羽さんは、大変だったのね」

『おそらく、精神的にとても。ですから、紫苑様も、産後もう少し傍にいてやればよかったと悔やんでおられました』

「父さんは……父さんには、ツバメのこと話してなかったのかな?」

『そうですねぇ……』


 ちらりと、ツバメを見上げて、安藤は笑いを含ませながら続ける。


『紫苑様は意外と嫉妬深いですからね。ユリ様がしばらくは黙っていた方が平和だろうと。揚羽様もその辺りは同意していたのではないでしょうか』


 ツバメが苦々しそうに顔をゆがめた。


『――誰が、嫉妬深いって?』


 鈴からの声に父さんの声が突然割り込んで、私とツバメは驚いて顔を見合わせた。


『紫苑様、ですよ。実際、知っておられたら、揚羽様の仕事を邪魔したでしょう?』

『人聞きが悪いな。別の誰かに変わってもらうくらいだよ』

『こちらでは揚羽様が適任だと判断しましたので、変えられると困ったのです』

『揚羽が私より母さんの意見を通すなんて……』

『そういうところですよ』


 あまりにも普通に交わされる会話に、呆気に取られていた私はそこで我に返った。


「と、父さん? アンドゥも……どういうこと? どうして……」

『母さんの企むことは一見複雑だけれど、回りくどいことをしているときは、だいたい人間関係の修復を目指している時だからね。星を私ではなく紫陽に、という時点でいくつか仮説を立てていたよ?』

『先日……パーティに向かう車の中で、取引を持ち掛けられまして……わざわざご自分でハンドルを握って、ケースがあるのに私をそのまま助手席に乗せた時点で気づくべきでした。その時は、返事もせずにしらを切ったのですが』


 ツバメが、そっと天を仰いだ。


『ほら、横山君が招待されてたからね。下手すると私と同じことを考えてるかもしれなかったから。もしも、彼に攫われて、バレそうになったらデータを全消去した方がいいってアドバイスをね。ボディももっと動きやすいものを用意するから、壊されてもその後を保証するよと。どうせバックアップがあるのだろうしね』

「取引なら、何を要求したんだよ」

『私のパスを自由に使っていいから、時々仕事を手伝ってくれと言っただけだよ。しばらく調整が大変そうだからね。効率よくいきたいじゃないか』

「それで……アンドゥは……」

『実際、攫われましたので、安藤に関する本体ネコロンのデータを全消去する羽目になりました。幸い身体は無事でしたが、小さな本体はもどかしいのも事実。紫苑様なら無茶なことはしないかと、条件を呑むことにしたのです。紫苑様のパスは、正直とても利用価値がありますから。戻ってきてすぐに連絡をつけました』


 ただただ息を吐くだけの私と違って、ツバメは顎に手を当てて何か考えている。


「……次の身体のあてはあんのか?」

『そのためにこちらに来たんだけどね。これでも急いで動いてるつもりなのに、君たち、ちょっとせっかちすぎるよ? 揚羽はまだ頷かないと思ってたんだが。津波黒君はどんな説得をしたんだい?』


 ツバメは見られているわけではないだろうに、アンドゥからそっと視線を外した。


「……ウルセ。俺の本業は星の管理なんだよ。いつまでもいられねーっての! 金持ちはやっぱ違うんだな。ほいほい代わりの器を用意できるんだから」

『自分の懐は痛まないからね』

「あん?」

『桐人君にお願いしたよ』

「……な、ん……!!」


 気色ばむツバメを、父さんは笑った。


『別に、そのままを伝えたりしないよ。君が言ったんじゃないか。「新しいボディガードを用意しろ」って。まあ、最新のを要求したら、少し待たされてるんだが……』


 さすがのツバメも絶句したので、父さんはとりあえず、とその場を締めた。


『月曜には連れて帰れると思う。楽しみに待っててくれ。紫陽、今度は家族三人で話をしよう』

「……うん」


 返事を確認すると、アンドゥはテーブルから降りて、奥の方へと歩いて行った。揚羽さんと父さんを話させてあげるのかもしれない。

 残された私たちは、薄くなったアイスコーヒーを何となく啜って、同じように息を吐き出した。


「……最新のって、いくらくらいするかな……」

「ウン千万じゃね?」

「そっか……ちょっと、申し訳ないかも」


 ふん、とツバメは鼻で笑った。


「安いもんじゃね? お嬢さんのキスは、もっと高いだろ」

「え?! ……そ、そうかな……あ、じゃ、じゃあ、ツバメはずいぶん得したんだね」


 は? という顔をしてから、みるみる赤くなると、ツバメは慌てて首を振った。


「ち、違ぇって! あれは、人工呼吸だって、言ってんだろ!?」


 ちょっと場を和ませたかっただけだったのに、そのツバメの慌てぶりにまた妙な空気になってしまう。

 奥からこちらをちらりと覗くアンドゥが見えて、ツバメはまた慌てて下を向いた。


「やめてくれ。殴られるくらいじゃすまなくなりそうだ」


 声を潜めてうなだれる姿が可笑しくて、私はひとしきり声を殺して笑ったのだった。




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