25.趣味

 横山さんはその場から見える唯一のドアを手で示す。

 振り返ってみると、後方はシャッターが下りているようで、簡単には出られなさそうだ。

 ドアに向かって歩き出せば、横山さんもすぐ後ろをついてくる。


「お仕事はお休みですか」

「違うけど、ここ数日はずっとここで仕事してるよ」


 リモートでもあまり問題ない仕事なんだろうか。出社しなくても不審がられないなら、余裕があるのも頷ける。

 ドアの前まで辿り着くと、横山さんはすぐ横の装置に手をかざし、そこを覗き込んだ。ロックの外れる音がして、ドアは上へとスライドしていく。


「どうぞ」


 あくまでも私が先、と促される。

 中に入ると、思っていたよりもスッキリと明るい廊下が伸びていた。正面に透明な踏み板の緩やかな螺旋階段が見える。壁にも天井にも余計なものはなく、シンプルでスタイリッシュな四角いライトがいくつかついているだけ。

 薄暗い地下牢のようなところを勝手に想像していたので、突然現れたデザイナーズハウスに戸惑ってしまう。


「あの……靴、脱ぐんですよね?」


 床は木材ではなく、石のようで、外国式ならそのまま入ってもいいのだろうけれど、一応三和土たたきがあった。


「ああ、ごめん」


 横山さんは壁の一部を開くと、スリッパを出してくれた。無茶なことをしている割に、対応は柔らかく、気が緩みそうになる。

 ボルドー色の高級そうなスリッパに足を乗せると、「右の部屋に入って」と指示された。

 右手には少しだけ開いたドアがある。私は奥の螺旋階段をもう一度見やった。


「嫌です。と、言ったら……」


 ふふ、と笑う声がする。


「上に上がりたい? 別に、それでもいいけど。外に繋がる回線は仕事場にだけ。今はそこはロックしてる。Wi-Fiは飛んでないよ。気が済むまでこの家を見学する?」


 念のため確認した端末も圏外。彼の言い分を信じるなら、この家はすべて地下なのか、地上部分があっても外からの電波は遮られているらしい。余裕の意味が解ってきた。

 ツバメが気が付くとしたら、お昼を過ぎてからだろう。見学するにしても時間はありそうだ。

 私は少しだけ開いたドアを押し開けた。




 そこは一見、小さなバーのようだった。棚に並んだお酒の瓶。二、三人並べる程度のカウンター。ソファに小さめのテーブル。薄暗い明かりダウンライトは、横山さんが「up」と口にすると、明るい白色光へと変わった。


「朝ごはん食べてないんじゃない? 何か作ろうか」


 そういえば、と思うものの、とても何か喉を通りそうな気がしない。

 近くのソファを勧めてカウンターの中に入っていく横山さんを追って、私はカウンターの椅子に腰かけつつ首を振る。


「いりません」

「そう? じゃあ、飲み物」


 きちんと手を洗って、カウンター下の冷蔵庫から茶色の液体のペットボトルを取り出して、氷を入れたグラスに注いでくれる。少々気は引けたけど、目の前に置かれたグラスにも横に首を振った。

 ちょっと笑いながら、横山さんはそのグラスの中身を三分の一ほど飲み干して、もう一度私の前に置いた。


「用心深いね。ただの烏龍茶だよ。……まあ、お葬式からこっち、色々あったんだろうけど」


 彼は背を向けると、お酒の棚の中から手のひらサイズの化粧品の容器のようなものを取り出した。ちょっと場違いなような気がして、思わず見入ってしまう。

 慣れた手つきで蓋を開けると、彼は薬指でとろりとしたクリームを掬った。反対の手の甲に一旦クリームを置いてから、両手にすり込んでいく。爪まで丁寧にすり込むと、にっこり笑った。


「紫陽さんもつける?」


 あっけにとられている私の手を取ると、その甲にクリームを乗せられる。


「うちに来る女の子にはいつも一通りやってあげるんだけど……タカトに怒られそうだから、自分でやってね」


 目の前で先ほどと同じ動きをする指先を見ながら、ともかく真似をする。しっとりと沁み込むような使い心地で、すべての工程を終わる頃にはさらりとしてしまう。鼻に近づけてもほんのりと甘い香りが残る程度で、嫌味な感じがしない。

 あれ。でも、この香り、どこかで。


「使い心地いいでしょう。うちの一番人気」


 クリームジャーのロゴをこちらに向けて、横山さんはウィンクした。

 “A”の文字が二つ並んだ意匠。『ダブリエ』だっただろうか。高級路線のアンチエイジング化粧品ブランドだ。


「……?」

「実家がね。母の会社なんだ。世間よりは安く手に入るから、ご入用の時は言って。これはハンドクリームだけど、化粧品はサンプルがあるから持ってく?」


 綺麗な手の謎は解けたけど、少しうきうきと別の棚に向かう横山さんに戸惑う。こういう人は、だいたいこの後セールストークを始めることが多い。そのために連れてきたのだろうか。そんなことのために?


「……あの、お話って……」


 はたと足を止めた横山さんが振り返る。残念そうな顔で今一度向かった棚の方を見てから、彼は肩をすくめた。


「そうだった。可愛い子は、つい綺麗にしたくなっちゃって。紫陽さんは磨きがいがありそうだから……」

「『Kazan』の社員さんですよね?」

「そうだよ」

「どうして『Kazan』に? そんなにお好きなら、お家の仕事をした方が……」

「ユリさんに誘われたから。ある程度好きな仕事をさせてあげるって。経営とか、営業トークとか、そういうのは嫌いなんだ。好きなものを自分がいいと思った子に勧めたい。無理に買わせようとも思わないし、欲しいと言われれば売るけど。趣味で充分」


 結局サンプルを一通り取り出して小さな紙袋にまとめると、私の前に置いた。


「ハンドマッサージとか、フェイシャルマッサージとかしてあげたいけど、今日はこれで我慢」


 小さな丸い缶を開けて小指で円を描くようになぞると、それを私の唇に当てる。驚いてのけぞると、厳しい顔でたしなめられた。


「動かないで」


 思わず動きを止めてしまって、綺麗な指が下唇をなぞり、そのまま上唇の山を描くのも許してしまう。真剣な顔は、すぐににこりと崩された。


「うち、意外と乾燥するからね。ハチミツ入りで色はつかないから。下地にもいいよ」


 丸い缶を紙袋に放り込んだ横山さんは、ティッシュで小指の先をふき取りながら満足気にそう言った。




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