湧水
伊藤リュウノスケ
湧水
今朝風を乗り換えた時から、奇妙な感覚が私を包んでいる。
今まで感じたことのない、胸を締め付けるような、強い何か。
この気持ちは一体何だろうか。もう半刻は考え続けている。
その時、一匹のオオタカが気持ち良さげに私の傍を通り抜けた。強い風だから、速く飛べて嬉しいのだろう。
そういえば、前にも一度見掛けた覚えがある。もっとも、空の彼方に小さな影を捉えた程度の思い出だが。
もう何十年も昔の事だ。どうして今になって思い出したのだろう。
――薫り。そうか、薫りが私をこんな気持ちにさせるのか。
私を永く閉じていた本に、薫風という字があった。なんでも、初夏の新緑が薫るような風を表す言葉らしい。私を運ぶこれも薫風といえる。よく嗅いでみると、微かにママの薫りを含んでいるのだ。
嗚呼、なんと懐かしい。立派な角の甲虫に、可愛らしい黄色のキンラン。夏にはケヤキの木が沢山の葉を生い茂らせて――。
思えば、風から全てが始まった。そよ風に攫われて、彼の手の平に落ちて。それから、それから――。
やっと帰れる。
もう直ぐ傍まで来ている筈だ。少しずつ、薫りが強くなっている。
風よ、もっと速く運んでおくれ。少しでも速く、私を運んでおくれ。
ママの元へ、運んでおくれ。
*
「――着きましたよ。うん、写真の通りだ。きっと此処でしょう」
「嗚呼、そうだ。此処だよ。懐かしいなぁ」
「空気が美味しいですね。うちの施設も、こういう場所に移せれば良いのですが」
「引越しはもう懲り懲りだよ。まあ、おかげで思い出したのだがね」
「例の押し花ですか?」
「そうそう。懐かしい本を開いたら、そのまま窓の外に飛んでいってしまった。ほら、あそこの湧水の傍に、桜の木があったんだよ。ママ下湧水といってね。あんまり綺麗に透き通っていたものだから、掬って飲もうかと手を伸ばしたら、丁度、桜の花弁が落ちてきたんだ」
「こんな狭い場所に桜って、珍しいですよね」
「たまたま落ちた種が、たまたま育ったんだろうね。周りの木の方が強かったのか、こんなに小さくて、可愛い桜でね」
「春先に来たら見れましたかね?」
「いいや、もう桜は無いようだ。枯れたか、或いは移して貰えたか。どちらにせよ、私と同じだな」
「またそんな事言って、まだまだ若――あ」
「どうしたんだい?」
「ほら、水面! あれ、桜の花弁ですよね?」
「本当だ。もう夏なのに、何処から来たのか」
「……ひょっとして、例の押し花じゃないですか?」
「ははは、そうだといいねぇ」
「きっとそうですよ」
「花弁さん。良い思い出を作ってくれて、ありがとうね――おかえりなさい」
*
ただいま。
『湧水』(了)
湧水 伊藤リュウノスケ @itouryuunosuke
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