いつも通りの朝?[2/2]


 しばらくするとみゆきちゃんの小さな笑い声が漏れるのが聞こえてきました。目を開けると、みゆきちゃんは微笑を浮かべてこちらを見つめています。

「ふふ、こだまったらすぐ赤くなるのね。……大丈夫よ、ここではそんなことしないから」

 どうやら私はからかわれていたようだと気づくのに、時間は必要ありませんでした。途端に恥ずかしくなり、より一層顔が熱くなります。クラスの喧騒まで私を笑っている気がします。冷静に考えるまでもなく、ここは教室の中であり、「そんなこと」が起こるはずがないのです。どうして私はそういう勘違いをしたのでしょう? 自分の馬鹿さ加減を呪わずにはいられません。みゆきちゃんはそんな私の頬を、そっと優しく撫でました。


「おっはよー、みゆきりん、こだまちん」

「……あんたら、何してんの?」

 それを聞いてみゆきちゃんはさっと手を引っ込め、同時に私は声がした右上方向に目線を送りました。顔がたいそう赤くなっていることが予想されるので、顔は向けていません。目線だけを送っています。


 見るとやはりいつもの二人、由美ちゃんと、佳奈子ちゃんでした。二人はいつも通り、制服を着崩して、私の席の横に立っています。ちょっと口が悪くて、金髪の混じったロングヘアーが西尾由美ちゃんで、明るいノリの口調で、地毛の茶髪ショートが東野佳奈子ちゃんです。二人とも女子テニス部で、とても元気なので、初めはちょっと苦手でしたが、今では気兼ねなく話せる友達です。

 私は学校にいるときはこの三人と一緒にいることが多いのです。


「脈拍を測っていたのよ。今日は持久走があるみたいだから」

 みゆきちゃんは、そんな二人の方を向いて言いました。さっきの優しい微笑みから、委員長モードの凛々しい顔つきに変わっています。オセロの駒を裏返すみたいに、彼女の変貌は早いです。

「脈拍って……手首で測ればいいじゃん」

「そうなの、手首でもいいのね、知らなかったわ」

 みゆきちゃんはわざとらしく言いました。彼女は部活に入っていないので、運動部の二人よりは、そうした知識が少なくてもおかしくはないのですが、私にはどうしてもわざとらしく感じられます。だってみゆきちゃんは、私に「脈拍を測る」だなんて、一言も言わなかったのですから。もしかしたら、私が来る前からこうしようと決めていて、言い訳も考えていたのかもしれません。だとしたらなかなかの策士です。

「でもこだま、平常時にしてはちょっと速かったわね」

 いじわるな顔で、みゆきちゃんが私の反応を窺うように見てきます。彼女は私が照れたり、恥ずかしがったりするのをよく見たがるのです。何がそんなに面白いのかは、私にはよくわかりませんが、とにかく彼女は私のそういう姿を見たがるのです。できることなら私も彼女を照れさせてみたいものですが、策はまだ練っているといったところです。


 佳奈子ちゃんが「じゃ、うちも由美の測ろっ」と言って、手を由美ちゃんの方に伸ばし、彼女の髪型では無防備になっている、首筋のあたりに触れました。そのせいで彼女の「ひゃっ」という声が教室中に響き渡り、あたりはちょっとした静寂に包まれました。けらけらと笑う佳奈子ちゃんに、由美ちゃんは、顔を熟れたトマトのように真っ赤にして怒ります。

「手首でいいって言ったでしょ!」

 その様子に私は思わず吹き出してしまいました。ギロリと私を睨む由美ちゃん。私は蛇に睨まれる蛙のような格好になります。概して蛙は蛇より弱いものです。

 でもその蛇さんの顔は次第に温和なものに変わっていきました。

「こだま、元気になってよかった……」

 由美ちゃんは呟くように言いました。うんうん、と佳菜子ちゃんも頷きます。私は小さな声で、「心配かけてごめんね」と言いました。

 実は一週間前まで私は「あること」が原因で、体重がかなり落ちていたのです。学校にも行けず、二人にはとても心配をかけてしまいました。今私がこうして元気に学校に通えているのは、二人の優しさと、みゆきちゃんの「告白」のおかげなのです。

「でも本当にみゆきりん、何したんだろうねー」

「一週間で元どおりだしね、今月最大の謎だわ」

 私はみゆきちゃんの方を見ました。みゆきちゃんも、ちょっと困った顔で私を見ています。私たちが付き合い始めたことは、この二人にはまだ言ってないのです。


 二人に言うのは、みゆきちゃんと相談してからにしようと思ったので、私はひとまず話をそらすことにしました。

「明太子とか、食べたいよね」

 私の空っぽな頭が導き出した答えは、このようなものでした。どうして明太子が登場してきたのかは、私の脳細胞に聞いてみないことにはわかりません。もしかすると深層心理で明太子を求めていたのかもしれません。……深層心理まで食欲だとは……我ながら呆れます。

「確かに、美味しいよね、明太子」

 ノリの良さに定評のある佳菜子ちゃんは、私の雑な話の振りにも、頑張ってついてきてくれます。彼女がいるからこそ、私は安心して雑に話を振ることができるのです。

「ご飯にも合うし、いいわよね、明太子」

 みゆきちゃんは私の意図を察してくれたのか、話題が明太子に移ることを、快く受け入れてくれました。

「なんでいきなり明太子の話になるんだよ……」

 由美ちゃんは、ちょっと不満そうな顔をしています。

 まあ異議を唱えたくなる気持ちはわかります。私のランダムな脳の働きにいちいち付き合っていては、ろくなことがないからです。

「あれぇー、由美、明太子嫌いだっけ? 明太子」

「嫌いじゃないけど、特別好きでもない」

「味覚が子供ですねぇ、明太子」

「いい加減語尾に明太子つけるのやめろっ!」

 ツッコミが入って佳菜子ちゃんは嬉しそうです。嬉しそうな佳菜子ちゃんを見て、由美ちゃんもまんざらでもないご様子。

「そろそろ時間ね、明太子」

 みゆきちゃんが教室の前にある時計を見て言いました。八時十五分から十分間は、名目上、自習をすることになっています。授業の予習をしたり、復習をしたり、本を読んだりする時間なのです。(やったあ。本が読める)

「それじゃ、じゃあね、明太子」

「うん、バイバイ、明太子」

「もういいよ、たらこ」

 そう言って二人は、自分の席に戻っていきました。絶対に明太子とは言わないところが、由美ちゃんらしいです。彼女は我が強いところがあるので、きっと何が何でも、絶対に明太子とは言わないのでしょう。妥協して、譲歩して、やっとの思いで飛び出てくるのは「たらこ」なのです。

 そういえば、明太子とたらこは何が違うのでしょう? 

「こだま、ありがとう。話をそらしてくれたんでしょう」

 みゆきちゃんは小さくそう言いました。私はただ本能の赴くままに「明太子を食べたい」と言っただけなので、感謝されるほどのことでもないですが、どんなことであれ、みゆきちゃんにお礼を言われるのは嬉しいものです。たまには私の脳細胞を褒めてやらねばなりません。

「二人には私たちのこと、伝えた方がいいかな……」

 私がそう聞くと、みゆきちゃんはまた困った顔をしました。

「そうね、でも……」

 彼女は言い澱みました。

 私たちが付き合い始めたこと。

 二人になら話しても大丈夫だと思うのですが、やっぱり言いにくい話であることも事実です。このまま「二人だけの秘密」にしておくのもいいのかもしれません。それも十分現実的な案ではあります。それでも、私はこう言いました。

「私は由美ちゃんと佳奈子ちゃんにも、知っておいてほしいかな。私たちのことは、二人のおかげでもあると思うし」

 みゆきちゃんはハッとしたような顔をしました。そして真剣な顔になって言いました。

「その通りね。……でも、もう少し考えさせてくれる?」

 みゆきちゃんは頭がいいので、私よりもずっと考えることがあるのでしょう。考えることは私よりも彼女の方が得意なので、私は彼女の意見を待つことにします。

「いいよ。ゆっくりでいいからね」

「ありがとう、こだま」

 みゆきちゃんはそう言って、ポニーテールの黒髪をほうき星のように振って、席に戻っていきました。

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