第36話



 皿洗いが終わるとこだまには先にお風呂に入ってもらった。それは普通に、お客さんを優先してのことであり、こだまが入った後の湯船に浸かりたい、というようなやましい理由からではなかった。決して、そんな動機ではない。私だって一応学級委員なのだ。そんなずるいことはしない。

 とりあえず自分の部屋の掃除をした。しばらく掃除をしていなかったので、このままこだまを招くわけにはいかない。

 風呂上がりのこだまはさっぱりとしていた。パジャマは姉さんのもの。

「湯加減はどうだった?」

「うん。ちょうどよかったよ」

 そう言ってリビングでおもむろにストレッチを始めるこだま。思ったより体は硬そうだった。この動きからして、普段は絶対していない。彼女はわりと気まぐれに行動するのだ。

「……もうちょっと、伸ばせないの?」

「えーこれが限界だよう」

 私も座り込んでやってみる。別に軟体動物のように柔らかいわけではないが、それなりにはいく。

「むう。みゆきちゃんさすがだなあ」

 こだまは苦戦しているようだった。まあ毎日続ければ少しはましになると思う。

「じゃあ私、お風呂入ってくるから。テレビつけていいわよ」

 人の家で一人残されるのは心細いだろう。

 だったら一緒に入ればよかったかな。いや、それは刺激が強すぎるから無理だ。

「はーい。お先に失礼いたしました」

 こだまがストレッチをしながら答えた。着替えをとって廊下を歩いているとバラエティ番組の音が聞こえてきたので安心した。

 さて、と。私はちょっと気合が入っていた。とりあえずこだまの入ったお風呂を堪能した。


「うわあ……」

 こだまは私の部屋に入って声をあげた。この部屋、こだまは何と評すのか。

「シンプル……って感じ?」

 疑問形で聞かれても。

 まあその通りだと思う。ベッドと、本棚に少しの本と参考書があって、勉強机に教科書等があるほかは、特筆するところのない部屋。最近はベッドの上で泣いてばかりだったから、こうやって部屋を見渡すのは久々かもしれない。

「あ、この本。私が貸したシリーズの続きだ。えへへ、みゆきちゃん気に入ってくれたんだ」

「え、ええ」

 本当は買うだけ買ってまだ読めてないとは言いにくい。こだまに借りたのは夏休みにちゃんと読んだけど。京都を舞台にした推理小説だった。

「京都とか、行きたいわね、いつか」

 本の内容の話をされたらかなわないので、話題をそらした。

「うん。行きたい行きたい。十二月には修学旅行もあるし、楽しみだね」

 修学旅行の行き先はまだ未定。北海道か沖縄になるらしい。

 というか、これからはこだまの「恋人」として学校のイベントに参加できるのか。来月には体育祭と文化祭もある。

「……みゆきちゃん、またにやにやしてる」

 こだまに言われて頬が緩みきっていることに気がついた。気を取りなおして言う。

「じゃあ宿題でもしましょうか。まだ寝るには早いから」

 時計の針は九時半を指していた。こだまが頷いたので、ちゃぶ台のような机を持ってきて一緒に勉強を始める。

 最近はほとんど時間を取れなかったとはいえ、一応毎日の習慣になっているので、このまま勉強しないで終わるのはちょっと気持ち悪かった。こだまには付き合ってもらおう。

「こだま、休んでたし、わからないところ多いでしょう。何でも聞いてね」

「ありがと。なんか、みゆきちゃんの部屋で勉強するのって、いいね」

 こだまはわくわくした声で言った。

 確かにそうだ。小学生の時は姉さんと同じ部屋だったけど、今は私の部屋に誰かが入ることは滅多にないので、それだけでも新しい気分になれる。それがこだまなら、もう、最高だ。

「……いつでも、来ていいわよ。こ、恋人なんだし」

 こだまの頬がぽっと赤くなった。たぶん私もそんな感じになってると思う。

「うん。なんだか、照れるね、それ」

 彼女は照れくさそうに教科書を開いた。


 こだまがうつらうつらしているのに気がついて、ふと時計に目をやると十一時半だった。ああ、しまった。勉強に集中するあまり、もうこんな時間になってしまった。

 飲み会から母さんはもう帰ってきてるだろうし、その様子にも注意して……って結構やることがあるかも。とりあえずこだまを起こす。

「こだま、お布団もってくるから、一回起きて」

 彼女ははっとして顔を上げた。とても眠そうな顔だった。

「枕も何個か持ってくるから、自分にあったやつを使ってね」

 孫が家に来たおばあさんのような台詞だった。頭の中で苦笑する。

「……みゆきちゃんと一緒に寝たい」

 寝ぼけた顔でこだまが言った。

 うん。期待通り。

「そ、そうね。じゃあ枕だけ持ってくるから待っててね」

 こだまはこくんと頷いた。

 一階にいる母さんはそれなりに酔っ払っていて煩わしかったが、適当に相手はしておいた。こだまが来ていることも伝えたが、理解しているかはわからない。和室から来客用の枕を何種類かとって二階に上がると、心臓が早くなった。

 一緒に寝るって……。

 そういう意味で言ったわけではないのはわかっているが、それでもやはり緊張する。だって、あんなに素直に言うから。

 部屋にいるこだまは机の前でこっくりこっくりしていた。その様子を舟を漕ぐようだと最初に言った人はすごいと思う。

「こだま、枕選んで。喉乾いてたら机の上のお茶、飲んじゃってね」

 歯もさっき磨いたし、準備はできたかな。

 こだまはベッドに横になって枕をいくつか試して、決めたようだった。

「じゃあ、電気消すね。こだまは……」

「あ、私夕方がいい」

 ベッドで横になっているこだまが言った。

 ……夕方?

 ああそうか。豆電球のことだ。

「私もいつも『夕方』よ。喧嘩にならなくてよかったわね」

 そう言いながら電気を消した。夕焼けってこんな感じだっけ。

 こだまと一緒の布団に入って寝転ぶ。

「そんなことじゃならないよ」

 当たり前のように言った。

 私はこだまの手をそっと握った。ちょっと二人じゃ狭いから、すぐに手が届く。こだまも暖かい手で握り返してきた。いいな、こういうの。

 こだまは目をつむっていた。長い睫毛が「夕日」の影になっていて、唇が艶かしい。シャンプーの香りは私と同じはずだけど、こだまがつけていると彼女の匂いも混じっているようで、とてもそそられる。もっと近くで嗅ぎたい。もっと近くでこだまを感じたい。

 私は手を繋いだままこだまのほうに向き直り、顔を近づけようとした。その時だった。

「おやすみ、みゆきちゃん」

 こだまはそう言い残した。彼女からはもう静かな寝息が聞こえてくる。ああ、眠っちゃった。

 元の位置に戻る。こだまはまだ手は繋いでくれていた。私の手は熱気で汗をかいているのでこだまも暑いだろう。私は組み替えて、恋人つなぎにした。

 それにしても、慣れない枕でこんなに早く眠りにつけるとは。よっぽど疲れていたんだろう。まあ私でも今日は疲れたくらいだから、一週間ぶりの学校のこだまはもっと疲れていて当然だろう。ちょっと振り回しすぎて悪かったかな。

 それに、……ちょっと早い気もするし。

 ……これでいいや。

 手を伸ばせばすぐ触れるところにこだまがいる。顔を近づければすぐキスできるところにこだまはいる。彼女はキスを拒まないし、自分からもしてくれる。昨日までの私に言っても絶対信じてくれないような、大進歩だ。だから、今はこれで十分。十分すぎるほどに幸せだ。

 こだまとのことは、焦らずこれからゆっくり考えていけばいい。時間はまだあるのだから。まだまだたくさん、あるのだから。今日はもう眠ろう。

 明日は、絶対私が先に起きよう。それで、こだまの寝顔を見てから、朝の支度をして、私がこだまを起こしにいこう。こだまは「ここはどこ?」とか言って天然ボケをかましてくれるかな。それには笑顔で応えてあげよう。こだまは朝はパン派かな、それともご飯派かな。私は休日はパン派だから、一緒だったらいいな。おばあさんが送ってくれた美味しいジャムがあるから、それをつけて食べよう。きっとこだまは喜んでくれるだろうな。

 うん。明日は良い一日になりそうだ。


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