第35話
雨は強さを維持しているようだった。テレビはさっきからずっと大雨のニュースをしている。
こだまはソファで眠っていた。キスの途中で、「みゆきちゃん、ごめん、もう限界」と言って眠りについてしまったのだった。
まあ一週間ぶりの学校で疲れているのは知っている。私はこだまをソファで寝かせ、風邪をひかないよう毛布をかけてから、家事と晩御飯の支度を始めた。
こだまに日頃の感謝を込めたおもてなしをすることは変わりない。変わったのは、その相手が、「恋人」になったことくらいだろう。
……しかし、材料がない。
親が晩ご飯はいらないというので、金曜日の今日は、弁当のおかずの在庫処分というか、残り物のバーゲンセールが食卓に並ぶことになりそうだ。あまりこだまの好きなものは作れないかもしれない。
とりあえず、ちょっとした調理を済ませ、家事もひと段落すると、ソファの上がもぞもぞ動いた。近づいて、声をかける。
「こだま。ちょっとは眠れた?」
むにゃむにゃ言いながら起き上がる。
「はい。今六時半。晩御飯はもうすぐできるけど……」
机の上のデジタル時計を指し示す。
すると、こだまの顔が何かを思い出したように赤くなった。
「みゆきちゃん、私、もしかして、とっても恥ずかしいこと、した?」
唇を押さえてあたふたするので、思わず笑ってしまう。
「さあ、どうかしら」
「ご、ごめんね。勝手に上がり込んどいて、変なことして……。みゆきちゃんのお母さんとかに見られてたらどうしよう……」
「ふふ。いいのいいの。父さんは出張だし、母さんは今日は飲み会で遅くなるって言ってたから。……というか、私が家に誘ったのよ、だからこだまは細かいこと気にしなくていいの」
こだまは赤くなったまま俯いてしまった。
「それより、こだまはご飯が先派? お風呂が先派?」
もう少しこだまの反応を引き出すような質問をしても良かったのだが、ここは話題をそらしてあげた。今は、彼女をもてなすことの方が大事だ。
「……ご飯が先、かな」
「良かった、私と同じで。もうすぐできるから……」
痩せたこだまを見て、ちょっと言葉を変える。
「……無理して全部食べなくてもいいわよ。食べられるものだけで」
きっとこだまは、私のことで自分を責めて、食事をすることもできなかったのだろう。まずは、ちょっとずつ、元の生活に戻していって欲しい。
「うん、ありがと。……あ、でもちょっと、お腹すいてきたかも」
「……さっきのキスのおかげかもね」
どきっとした顔をするこだま。やっぱりこの反応は見なきゃいけないと思う。
「まあ残り物が多いから、あまり期待しないでね」
こだまの表情も堪能したところで、台所に戻ろうとした。こだまが服の裾を掴む。私は振り向いた。
「ごめんね。……みゆきちゃんのこと、好きすぎて、我慢できなかったの」
俯いて言うのだが、そのせいでこちらの頬が熱くなった。こだまから発せられた言葉だとは信じられず、また鼓動が早くなる。「ストレート攻撃」の一環だろうか? いや、それにしては時事性と攻撃性が高すぎる。
でも、どうやら私をからかっているわけではないらしい。これは彼女の天然もののようだ。
こうなったら私はもうお手上げだ。
「……こだま、わかったから、火、付けっぱなしだから」
そう言ってもこだまは裾を掴んだまま離してくれなかった。耳が赤くなっているのがわかる。
もう。本当に。
「…………ひゃっ」
私はこだまを抱き寄せて、頭を優しく、優しく撫でた。こだまは最初はそわそわしていたが、私が頭を撫でるたびに力が抜けて、リラックスしているようだった。裾を掴んでいた手は、いつの間にか私の腰に回されている。
「……そろそろご飯ができるわ」
私がそう言って手を止めると、彼女は顔を真っ赤にして、ソファに突っ伏した。
こだまはとても美味しそうにご飯を食べた。相変わらず食べるペースはのろまだが、食欲はあるらしい。残り物主体のおかずを、ある一定のペースで口に入れる。その様子を見ていると、私のご飯も美味しくなった。
平日は、一人で晩御飯を食べることが多かった。テレビだってつけることはほとんどない。こだまが来てくれると、いつもは薄暗い家の中が光り輝くようだった。こんなふうに穏やかな気持ちで過ごせるのは久しぶりだ。
「これ、みゆきちゃんが作ったの?」
こだまがおかずの一つを示した。
「ええ、そうよ。お口に合うかしら」
「うん。すっごく美味しい。私もお母さんの料理とか手伝ったりするけど、こんなに美味しくできないと思う」
こだまの素直な感想は、正直、かなり嬉しい。私は頬が緩んで変な顔にならないように気を引き締め直した。
「ありがとう。今度、こだまの作った料理も食べたいわ」
「うん、じゃあ今度、お弁当交換、とかかな。由美ちゃんと佳菜子ちゃんの分も作ってあげたいよね。二人ともいつもパンだから」
菓子パンを頬張る二人の姿がありありと目に浮かんでくる。
二人には、感謝してもしきれないだろう。本当にいろんな場面で支えてもらった。
「そうね。こだまと一緒に作ってもいいわね」
こだまは「あ、それも楽しそう」と言って微笑んだ。
ああ、それにしても。
あれだけ悩んでいたのが嘘みたいだ。こだまがこうして私と晩御飯を食べていることが嘘みたい。それに……。
こだまからキス、してもらっちゃった。
私からの強引なキスじゃなくて、こだまからの、キス。好きな相手じゃないとなかなかできないだろう。やった。ああ、嬉しい。
変な笑い声が出た。
こだまの怪訝そうな表情が見える。
「みゆきちゃん、どうしたの?」
こだまはなんでこんなに平気そうなんだろう。私はもうくすぐったくて仕方がない。
みゆきちゃんのこだまになりたい、だって。
その場で思いついたのかな。それにしてはピンポイントすぎる。私が知らなかった、私の一番聞きたかった言葉だ、まさしく。
ああほんとに。これからもこだまと一緒にいられるんだ。こだまの隣にいられるんだ。まだ実感がわかなくて、笑いが止まらない。
私はこんなに幸せでいいのだろうか。
「……ふふ。ごめんなさい。色々思い出しちゃって……」
「変なの」
こだまはちょっと頬を赤く染めた。そしてそれを隠すようにして言った。
「みゆきちゃん、ご飯のおかわり、もらっていい?」
こだまは残さず全部食べてくれた。食欲もだいぶ戻っているらしい。
「ごちそうさま。……久しぶりにご飯食べれたかも」
ぽつりと言う言葉が少し悲しい。
「ごめんなさい。私のせいね」
「ううん。支えになったのも、みゆきちゃんの言葉だよ」
こだまは優しく言った。
彼女にとっても、私はちゃんと大切な存在だった。
本当に。自分が悲しんでる場合じゃなかった。
「私も何か手伝えることある?」
食器を片付けようとしていた私は、はっとして答える。
「だーめ。こだまはお客さんだから、ちゃんとおもてなしを受けてちょうだい」
こだまは残念そうな顔をした。
「リュックは乾かして、中身は近くに置いているから、お弁当箱とかあったら持ってきて」
「え、そのくらい私が洗う」
「でも、一緒に洗っちゃった方が早いもの。さ、早く早く」
私がそう言うとしぶしぶ頷いた。その小さな背中が可愛い。
「……持ってきたら、私のそばで、お話を聞かせてね」
こだまの黒髪が優しく揺れていた。
こだまは、学校を休んでいた時のことを話してくれた。中学の時も家に閉じこもっていた時期があったらしく、その時のことを思い出したという。
「……あのままみゆきちゃんと離れ離れになったらどうしようってね。ずっと考えてた」
「……そんなわけないでしょう。私だって次の日には謝ろうとしてたわよ」
洗い物をしながら斜め後ろにいるこだまに答える。皿洗い中はいつも適当な音楽を聞くが、それだったらこだまと話がしたい。たぶんこだまも暇だろうし。
「みゆきちゃんはそうだよね」
こだまは笑った。そして「だけど」と小さく言った。
「私のせいだって、中学の時と同じことで悩んでたの。成長してない気がしてね、悲しかった」
こだまは今回のすれ違いと中学の出来事を重ねてしまい、悩んでいたようだ。
「こだまはちゃんと成長してるわ。私にはわかる」
――ずっと見てきたから。
後ろでくすくすと笑い声が聞こえた。
「……みゆきちゃんはいつも優しい言葉をくれるね。いつもそうやって支えてくれる」
改めて言われるとくすぐったい。
「……こだまは変わったわ」
もう一度、こだまの小さいお弁当箱を洗いながら言った。保健室で無理して食べたらしい。
耳の近くで声がした。
「だったらそれは、変えてくれたんだよ、みゆきちゃんが」
――それは私も同じ。
そう言おうとしたら、背中に温もりを感じた。危うくお弁当箱を落としそうになる。腰のあたりからこだまが腕を回していた。
「……洗いにくい」
なんというか。
こだまの息が首のあたりにかかってこそばゆいし、腕も動かしづらい。
「だってみゆきちゃん、可愛いんだもん」
水道の水がビニール手袋越しにつめたい。
…………可愛い、か。
かっこいいはもう何度か言われたけど、可愛いは初めてで、新鮮だ。普通、こだまに言われたら嫌味だと思うだろうけど。
「それにみゆきちゃん、いい匂いだし」
肩のあたりにこだまの顔がうずめられていた。くんくんと匂いを嗅がれている。
私も普段こだまの香りが好きとか思ってるけど、逆に人から言われるとなるとちょっと、恥ずかしいな。私はシャワー浴びずに着替えただけだから、汗の匂いとかしてそうで心配になって、力が入った。それでもこだまは離れようとしなかった。
それにしても、こんなにいちゃいちゃしていいのだろうか。これで長続きしなかったらどうしよう。もうちょっと、ちょうどいい距離感を模索する必要があるのではないか。
と、思ったけど。まあ、いいか。今日くらいは。
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