第34話


 ぽつりぽつりと降り始めた雨は、次第に強くなった。私がゆっくりと顔を離すと、あたりは本格的に降り始めていた。私たちのベンチの上の木の枝が、傘の役目を果たしていた。

「どうしよう……。傘忘れちゃった」

 こだまは独り言のように呟いた。告白をして、キスをして、まだ一分も経っていないというのに、それについては何も言わず、傘を忘れたことをぽつりと呟く彼女は、マイペースというか、天然というか。でも私の頭の中はそれどころではなく、興奮し、ひどく混乱していたので、彼女の言葉を聞いてすぐに、手を繋ぐのをやめ、かばんから折りたたみ傘を取り出した。

「はい。今日は付き合ってくれてありがとう。これ使って」

 そう言ってこだまに差し出す。なんだかもう照れくさくて、早くお開きにしたかった。

「え、でも、みゆきちゃんの分は?」

「私の家は近いから、いいのよ」

 私がそう言うと、こだまの表情が変わった。

「そんなの、だめっ!」

 雨がこだまの大きな声をかき消すように強くなる。近くの地面には水たまりができていて、木の傘ももう限界だった。

「だけど、こだまをこの雨の中行かせるわけにはいかないわ」

「それはみゆきちゃんだって同じだよっ!」

 私が無理やり渡そうとするのを、彼女は頑なに断った。

 押し問答。

 ――こだまはこんなに頑固だっただろうか。

 しかし、このままでは二人ともずぶ濡れになってしまう。私は今日の天気予報を恨んだ。

「どうしようかしら……」

 しばらく悩んでいると、こだまが私の制服を指先でそっとつまんでいることに気がついた。

 ――これって。

 こだまはもう少し、私と一緒にいたいのかな。都合のいい考えかもしれないけれど、そう思った。するとその時、いいアイデアが浮かんだ。

「私の家……来る?」

 そう言うと、こだまはこくりとうなずいた。私が立ち上がると、その動きに合わせて、こだまも制服を摘んだまま立ち上がる。そして、私は小さな折り畳み傘を開いた。


「うちに来るのは、初めてよね」

 並んで歩きながらそう言うと、こだまは小さく「うん」と答えた。折りたたみ傘は小さいので、自然と距離が近くなる。息が詰まるほどの間隔だが、こうするしかなかっただろう。ペースが速くならないように気をつけながら、こだまと歩調を合わせて進む。こだまはさっきからずっと私の制服をつまんでいるので、歩くペースを知ることができた。

 歩きながら、私は改めて、こだまに告白してしまったことを考えていた。勢いで、思わず言ってしまった。加藤先輩のことを応援すると言いながら、告白もするなんて、どう考えても矛盾している。こだまを余計、混乱させてしまうではないか。

 でも、どちらの気持ちも嘘じゃなかった。加藤先輩との恋を応援する気持ちも本当だし、こだまのことが好きな気持ちも本当。二つの思いが合わさった、そのままの状態をこだまに伝えた。人生初めての告白。思い返すと恥ずかしくて、穴があったら入りたくなるのだが、とりあえず今はこだまを家まで連れて行かないといけない。

 そう考えて、あとのことは深く考えずに、ひたすら歩き続ける。

 その時、雨が、バケツをひっくり返したように強くなった。地面からの跳ね返りで靴下が濡れる。

「あ、こだまのリュック」

 よく濡らしてしまうと言っていたのを思い出した。こだまが雨に当たらないことばかりを考えて、リュックのことまで気が回らなかった。

「ああ、うん。いいよ」

 こだまは小さく言った。

 激しい雨で視界がはっきりしない。こだまの声と雨音しか聞こえない。まるで世界に二人だけが取り残されたような感じがした。

 ――本当にそうだったらいいのに。

 

 ゆっくり、ゆっくり、歩くうちに家に着いた。傘を閉じて、鍵を開けて、中に入る。

「お邪魔します」

「今は誰もいないわ。ちょっと待ってて、タオル取って来るから」

 傘をたたんでから洗面所に向かう。びしょびしょになっている足先が気持ち悪い。靴下を脱いで、タオルを取ると、制服もかなり濡れていることに気がついた。あの傘に二人はさすがに厳しかったらしい。

 こだまにタオルを渡す。彼女の制服も濡れているのか、中の下着が透けて見えた。

「こだま。風邪をひいたらいけないから、シャワー、浴びたほうがいいわ」

「え、でも……」

 ためらう様子のこだま。遠慮がちな彼女の性格はよく知っているので、こんなやりとりももう慣れた。

「いくら風邪をひかないって言っても、今のこだまじゃ免疫力も落ちているだろうし。身体を温めたほうがいいわよ。それに……そんな濡れた制服じゃ帰せないわ」

 こだまは自分の胸元を見て、少し赤面した。


「みゆきちゃん、ありがとう」

「あ、もう上がったの。ココア、まだ熱いからやけどしないようにね」

 そう言いながらソファーの隣をあけると、こだまはちょこんと座った。机にはココアの入ったマグカップが二つ。目の前ではテレビが大雨を伝えていた。

「みゆきちゃんは、入らないの?」

「私はあとでお風呂に入るからいいのよ」

 さすがに部屋着には着替えたが。こだまには姉の帰省用の部屋着を貸している。

 テレビにニュース速報が入った。

「あ、雨で電車止まっちゃったって」

 画面の上の白い文字を、こだまと一緒に眺めた。

「どうする? 泊まっていっちゃう?」

 私は少し浮かれていた。友達が家に泊まりに来るのは初めてだ。

「……いいの?」

 こだまは心配そうに尋ねる。

「良いも悪いも……こうなっちゃったら、仕方がないでしょう? でも、お家の人にはちゃんと連絡してね。きっと心配してるから」

 一週間ぶりの学校だ。娘の帰宅が何よりも気がかりだろう。

「ありがとね、何から何まで……」

「いいのよ。今更遠慮なんていらないわ」

 こだまに感謝されることは気持ち良かった。それに、彼女のおもてなしをしている間は、告白してしまった恥ずかしさを忘れることができた。冷静に考えたら駄目だ。手を動かして、こだまに気分のいい時間を提供したい。

 これは、いつもお世話になっているこだまに、恩返しをするチャンスなのだから。

 そう考えると、胸が高鳴った。


 電話をかけ終えたこだまが、ソファーに戻ってきた。

「みゆきちゃんのこと話したら、泊まってもいいって」

 こだまの表情には幾分元気さが見られた。さっきまでは少し表情が硬かったのだが、今はくつろいだ顔になった。

「心配してたでしょう」

「うん、まあね」

 そう言って腰を下ろす。ちょうどいい温度になったココアに口をつけて、「あ、美味しい」とつぶやいた。

 ココアは彼女の好物だから、食欲がなくても飲めるかなと思ったのだが、正解だった。

 それにしても、家でのこだまは私のことをどういう風に伝えているのだろう。


「私も、みゆきちゃんのこと、好きだよ」


 その時、唐突に、彼女はそう言った。ぎょっとして彼女を見る。こだまは真剣に、少し困ったように言っていた。

「でもね、一つ、わからないことがあるの。みゆきちゃん、加藤先輩のこと好きみたいだったのに……」

 頭が真っ白になった。加藤先輩? どうしてその名前が今出てくるの?

「私が……?」

「うん。だって、みゆきちゃんの様子が変になったのが、加藤先輩にラブレターをもらってからだったから、そのことがバレてたのかなって思って……。私がみゆきちゃんに話をした時も、加藤先輩の名前を聞いてから泣き出しちゃったし……。あの時から、告白は全部断るようにしてたのに、また、私のせいで、人の好きな人を取っちゃったと思って……」

 何か、重大な違和感があった。私たちは、とんでもない勘違いをしているような気がする。

「ち、違うわ、こだま。私は最初から、こだまのことが好きだったのよ。他の人を好きになったことはないわ。ラブレターの場面を見たのは本当だけど、あの時泣いたのはこだまが遠くに行っちゃうと思ったからで……」

 こだまの目が丸くなった。私は冷静になるためにココアを口に運ぶ。

「そうだ、あのキーホルダーは? こだまのリュックについてる、お揃いのクマのキーホルダー……」

「あれは、由美ちゃんと佳菜子ちゃんとのお揃い。みゆきちゃん、勉強が忙しいって言って、一緒に来れなかったじゃん……って私、言わなかったっけ……」

「言ってなかったわよ……」

「ごめんね……それで『そんなものいらない』って……」

 私は静かに頷いた。こだまは何かに気づいた顔をした。

「てことは、私のも、思い違い……?」

「……そう、みたいね……」

 ふう、と息を吐いた。そうか、何でその可能性を考えなかったのだろう。私たちはすれ違っていたみたいだ。こんなに簡単なことに、どうして気づかなかったのだろう。

 でも、まだ疑問はあった。

「こだま、告白、断ったの?どうして?『あの時から』って、中学の時からずっと?」

 こだまのトラウマは、単に告白をされることではない。その告白によって、他の女子の好きな人を奪ってしまうこと、その嫉妬から、他の女子から拒絶・いじめを受けることだった。もし私の好きな人が加藤先輩で、彼がこだまに告白したことを私が知ったら、過去のトラウマ同様、私から拒絶されると思ったのだろうか。

「うん……」

 だから、こだまは告白された素振りすら見せなかったのか。男の好意がすでにこだまに向いていることを、悟らせないために。

 しかし、思ったことがすぐ顔に出がちなこだまが、告白の対処を穏便に、内密に、済ますことができるだろうか。私に気づかれないように、感情を消し去ることができるだろうか。

 

 そんなに、深いのだろうか、いじめが残す傷跡は。

 こだまの人格を変えてしまうほどに。


 私はぞっとした。

 でも、仮に私が加藤先輩を好きだったとしても、私はそんなことで、こだまを拒絶したりしない。絶対しない。それは由美さんや佳菜子さんだって、同じはずだ。

 もし、こだまが今までも、私たちに拒絶されるのを恐れ、萎縮してしまっていたのだとしたら。そのまま彼女が幸せを逃してしまうのを、私は見ていられない。

 背中を押す必要がある。

「……こだまの幸せは、こだまが選べばいいのよ。第一、中学の時の人たちと私たちは違うでしょ。こだまの幸せを恨んだりしないわ。だから、こだまも自分で好きな人を……」


「うん。だから、みゆきちゃんが好き」


 言い終わる前に、そう言って、こだまは抱きついてきた。彼女の思いがけない行動に、私はソファに押し倒されてしまった。

「……こだま。私に気を使わなくてもいいのよ」

 動揺を必死に抑えながら言う。

「違うよ、だから……」

 こだまの顔が、近づいた。と、思った時には、唇が重なっていた。張り詰めていたものが緩み、全身の力が抜ける。

「……みゆきちゃんとだったら、こういうこともしたい」

 と言ってから、こだまは私の左胸に顔をうずめた。私も両手で彼女を抱きしめる。

「……告白を断ったのは、みゆきちゃんがいたからだよ。

 私、高校に入ってからね、あまり馴染めなくて、辛かったの。でも、みゆきちゃんに話しかけてもらってから、すごく楽しくなった。みゆきちゃんがいて、由美ちゃんがいて、佳菜子ちゃんがいる毎日が、本当に、本当に、幸せだった。もう、これ以上何もいらないって思ったの。……だからね、みゆきちゃんと一緒にいる時間の方が、私にとって大切だから、断ったんだよ。もちろん中学のこともあるけど、それだけじゃないよ」

 彼女はそう言って、私の頬に、そっとキスをした。

「ごめんね」

 耳元で声がした。彼女の息が温かった。

「初めてみゆきちゃんがキスしてくれた時に、私が誤魔化さなかったら……ちゃんとみゆきちゃんの気持ちに向き合っていれば、こんなに傷つけることもなかったよね……」

 ああ、こだまの声だ。私の大好きな、この声。

「そんなこと……。突然キスされたら、誰だって驚くわよ……んっ」

 こだまがまた、口づけをしてきた。彼女の髪の匂い、息遣いを感じる。

 これは夢なんじゃないかと思う。もし夢ならば、このまま死んでしまいたい。でもこれは、夢じゃない。彼女からするキスの感触を、心地よさを、私はまだ知らないはずだから。

「みゆきちゃん、知らないよね。初めてみゆきちゃんが声をかけてくれた時、私がどれだけ嬉しかったか。一緒に帰る時、隣にいてくれるだけで、どれだけ安心できたか。一年の時からずっと憧れてたみゆきちゃんが、私と話してくれることが、どれだけ心の支えになったか」

 そう耳元で囁きながらこだまは私の首筋に口づけをした。思わず声が漏れる。全身が溶けてしまうような感覚がした。

「私も、大好きだったんだよ。親友でもいいから、ずっと一緒に居れたらいいなって思ってた。だから、みゆきちゃんが気持ちを伝えてくれてよかった。中学の時は辛かったけど、こっちの高校に来て、みゆきちゃんに会えて、本当によかった」

 そしてこだまは「みゆきちゃん、耳弱いね」と言って小さく笑った。

 彼女の言うことは、本当にそうだと思う。こだまと私が出会えたのは、彼女の辛い中学時代があったからだった。私と彼女の関係は、その上に成り立っていた。

「みゆきちゃん、さっきの言葉、もう一回聞かせて……」

 私の顔の目の前で、こだまは甘い声を響かせた。すでにとろけた脳で、必死に言葉を紡ぐ。

「……こだま、大好き……」

 うっすらと、こだまの表情が見えた。とろんとした顔。こだまも、あんな顔するんだ。

「私もだよ、みゆきちゃん」

 こだまが小さく舌を絡ませてくる。私と彼女の吐息が混じり合う。きっと拙いキスなのだろう。だがそれは全身を揺さぶるほど、心地いい。

 こだまの唾液が口の中に落ちてきた。私はそれをすぐに飲み込む。

「私、みゆきちゃんの一番になりたい。みゆきちゃんの、こだまになりたい」

 そうだ。

 私はもう、こだまが私の手に収まらないような、遠くにいる感覚に悩まされなくていい。遠くから誰にも気づかれずに思いを秘めていなくていい。

 だって彼女はこんなに近くにいるのだから。


 その時、私の頭は小さな警告を発する。若さゆえの勢いに対する、本能的な警告。

 安易に答えに飛びついて良いのだろうか?

 今後についての、予知的な警告。

 私たちの関係は、「補完」になるのか、「依存」になるのか?


 でもそれは、小さな警告だった。ふんわりとした香りで、こだまの顔がまた近づいてくるのがわかった瞬間、それは頭から消えてしまった。

 あとはもう何も、考えられなかった。

 

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