第17話
次の日は、午後から雨が降った。今年の梅雨は穏やかで、雨が降る日が少ないだけでなく、降ったとしてもしとしとと弱い雨が続くことが多かった。
しかし今日は本格的に降っていた。
「雨の日は嫌だねえ」
放課後の下駄箱で、こだまはもううんざり、という様子で言った。
「そう?私は落ち着くから好きだけれど」
「みゆきちゃんは大人だなあ」
靴を履き替え、傘立ての中から自分の傘を探すこだま。
ここで私は一つ、いいことを思いついた。
鞄に伸ばしかけた手を止めて、こだまに歩み寄る。
「あれ、どうしたの」
こだまがきょとんとした顔を向ける。
「……もしかしてみゆきちゃん、傘忘れちゃった?」
言葉にすると嘘がバレてしまう気がしたので、私は必死に頷いた。演技に自信はない。
「珍しいねえ。じゃあ私のでよかったら、一緒に入ってく?」
思い通りだと内心歓喜しながら頷く。
こうやって優しく世話を焼いてくれるのは、少しお姉さんっぽい。家でのこだまは弟と仲がいいのだろうか。
傘が無い、と立ち往生する人をかき分けながら外に出ると、こだまが自慢げに傘を広げて見せた。黒くて大きなその傘は、羽を広げたカラスのよう。
「どう?大きいでしょ。私、いつもリュックを濡らしちゃうから、大きめのにしてもらったんだ」
そして彼女は傘の中に私を招いた。
「これならみゆきちゃんも濡れないね」
急に近くなった彼女に、鼓動が早くなった。それをごまかそうと、口を動かす。
「わ、私が持つわ」
こだまはまたきょとんとした顔を浮かべた。
「ほら、ずっと持ってると疲れるでしょう」
「でも、みゆきちゃん鞄だもん。持ちにくいでしょ」
確かに、と返答に詰まる。それでも、彼女は私より五センチくらい身長が低いので、無理に力が入ったりしないだろうか。
「交代したくなったら、いつでも言うのよ」
「うん。ありがと」
こだまは楽しそうに言った。
「それで、亀池図書館ってどうやって行くんだっけ?」
「亀池公園を通って東のほう。道なりに行けばいいからわかりやすいわ」
今日はこだまと亀池図書館で一緒にテスト勉強をする。学校の図書室でなくその図書館を選んだのは、勉強の休憩時に散歩でもしながらお話ができると思ったから。今日はあいにくの天気になってしまったが。
――まあいいか。こうしてこだまの近くに居られるのだし。
それにしても、こだまは本当にいい匂いがする。ふんわりと優しいその香りは、高い湿度と相まって傘の中に閉じ込められている。私が「嘘」をつかなければ手に入らなかった空間。それでも空気は私を罰することなく、優しく包み込んでくれる。
やっぱり居心地がいい。こだまの温かい息づかいが聞こえてきそうなこの距離が、隣にいてくれるこだまが、心地いい。
歩を進めるうちにレンガ張りの大きな建物が見えてきた。雨が降っていても、それなりの来館者だ。
「みゆきちゃんのお家もこの辺りだっけ?」
傘をたたみながらこだまが尋ねてきた。いつか、そんな話をしたかもしれない。
「そうよ。だからよく使うのよ、ここ」
「へえ、そうなんだ」
休日など、たまに気分転換をしたくなったら、よく利用していた。亀池公園のすぐ隣だから、あのベンチで本を読むのもいい。
図書館に入ると、ほどよく効いた冷房が火照った身体を冷ました。学生向けの学習スペースで、隣で座れる席を見つけ、こだまを手招く。
「とりあえず、六時まででいい?」
「わかった」
「わからないところがあったらいつでも聞いてね」
こだまはこくんと頷きながら、リュックから数学の問題集を取り出した。
数学の定期テストは、八割が教科書に載っているような基本問題。残りは、テスト範囲の知識を使って解ける応用問題で、大学入試の過去問が出題される。こだまが取り出した問題集は、入試を意識した難易度が少し高めのものだから、基本問題はある程度解けるようになったのだろうか。
いそいそと問題を解き始めるこだまを眺めてから、私も勉強を始めた。
「みゆきちゃーん」
私が問題を解き終え、答えがあっているのを確認して一息ついたのを見計らったように、こだまが助けを求める声をあげた。
「なあに?」
「ここの解答の意味がわからなくて……」
椅子をそっと動かしながら、こだまの問題集を覗き込む。問題文にざっと目を通し、彼女の細い指が示すところを読んだ。
「これはね。ここの計算の逆をしているだけよ。少し省略されているからわかりにくいけど、実際に計算してみるとそうなるわ」
こだまははっとしたように問題集を見た。そしてため息をつきながら言う。
「ほんとだ。ごめんね、こんなつまらないこと聞いて」
「構わないわ。わからないままでいるよりはずっと良いもの」
そう言うとこだまはいつものように微笑んだ。それを見て私も頬が緩む。
自分の席に戻ろうと椅子を引こうとした時だった。
「私も、みゆきちゃんみたいになれるかな」
意表をつくこだまの言葉に思わず顔を上げる。彼女の微笑みは、いつの間にか、憂いの混じった苦笑へと変わっていた。
こんな表情、初めて見た。
私が直視していることに気がつくと、こだまは飛び跳ねそうになりながら言った。
「ごめん、何でもない」
私は無意識のうちに、椅子を引いて元の席に戻った。何と声をかけて良いのかわからなかった。
――こだまにとっての私はどういう存在なの?
私の耳が正しければ、こだまは今「みゆきちゃんみたいになれるかな」と言った。こだまは私みたいになりたいのだろうか。
私は今まで「私から見た」こだまのことばかり考えてきた。では、「こだまから見た」私は、どんな存在なのだろう。
考えたことなかった。好きな人にどう思われているか、考えたり思いを馳せることは自然なことなのかもしれないが、私は今までそれをしてこなかった。
それは私が自分自身のことばっかりだったからだ。私は、こう思う。私は、こう考える。自分の意見を持って生きることが大切だ、と言われて育ってきた。「日本人にはそれが足りない」と、父はよく、そう言って嘆いていた。だから私は、極力自分の意見を持ち、それを相手に伝えようと努めてきた。それが大切なことだと信じてきた。意見を言いすぎて疎まれることも少なくなかった。さすがに高校生ともなるとその辺の処世術というか、程度はわかるようにはなったけれど。
それでも、いや、だからこそ、人の意見や考え、時に感情などを読み取ったり、汲んだりするのがとても苦手だ。自分の意見がある程度確立しているため、相手の立場に立って考えるのがとても難しい。ディベートの議題みたいな話ならまだしも、人の感情が多分に含まれる話題では、相手の立場なんて全然わからない。例えば、「こだまにとって私はどういう存在なの」みたいな。そんなテーマでは。
ああ、こだまにとって私はどんな存在なのだろう。こだまは私のことをどう考えているのだろう。ちっとも想像がつかない。必要な存在なのだろうか。隣にいていい存在なのだろうか。
――彼女はとても壮大で、私なんかを必要としない……。
忘れかけていた、あの時の恐怖が蘇ってきた。
こだまが、既に私の手を離れて、どこか遠くに佇んでいる感覚。それが似合っていると思ってしまう私もいる。こだまと私は「一緒」にはいられないと、どこか諦めている私もいる。
だって彼女は「天使」なのだから。
――「拒絶されるのが、怖い?」
いつかの私の言葉がどこからか聞こえてきた。それは今の私には鋭く突き刺さる。
怖いに決まってる。彼女は、私の全てなのだから。私に足りない、全てなのだから。
それを失いたくはない。かといって、近づくことも、できない。
隣にいる天使は、私をしばらくの間、学問の世界から遠ざけた。
外に出ると、雨は止んでいた。でもさっきまでは降っていたから、また降り出すかもしれない。
勉強の後の清々しさ。それはこだまも同じらしく、気持ち良さそうに伸びをした。
「もう暗いから、少し遠回りになるけど、明るい道路の方を通って帰ってね」
「うん」
別れ際、彼女に声をかけた。
「それじゃ」
「あ、待って。今日も色々教えてくれてありがとね。もし良かったら、明日も…」
「ええ。もちろんよ」
「やった。じゃあ、また明日ね」
手を振るこだま。そんな彼女をみると、まだ私は必要とされているようで、安心できた。
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