第13話


 クラスでのこだまは少し雰囲気が変わっていた。西尾さんや東野さんのことを名前で呼ぶようになったことで、三人はより親密になったようだった。その輪にいるこだまは生き生きとしているように見えた。

 それだけではない。こだまは、以前は私にだけ見せていた微笑みを、他の人にも自然に見せるようになっていた。彼女が会話に加わると、和やかなムードに包まれるようだった。おっとりとした、優しい声音は、聞く人に心地よく響いていた。

 ――ここにいる人たちは、こだまの暗い過去を知らないくせに。

 私は嫉妬していた。まるで自分だけの宝物を横取りされたような気分だった。なんの迷いもなく、さも当然のごとくこだまと接する全員を、私は恨んだ。それが自分勝手なことは十分承知している。でも、のうのうとしている奴らが許せなかった。だから私は「こだまの過去」を知っているという事実を武器に、自尊心を満たしてやるほかなかった。

 そんな、「あの日」から一週間ほど経った、六月下旬に差し掛かったある日のことだった。

「みゆきちゃんも、お昼、一緒にどう?由美ちゃんも、佳菜子ちゃんも、みゆきちゃんのこともっと知りたいって言ってるし……」

 こだまの、優しい声だった。いつも私を優しく揺らす歌声のような、甘美で、優雅で、時に誘惑さえする声。そんな声。

 だから私は、許せなかった。許してはいけないと思った。私は怒っていた。

 ――こだまは笑っていた。それを、壊してしまうかもしれない。

 それでも、私が言わないと。代わりに誰が言うのだろう。失うものが何もない私だから、言えることがある。

 すっくと立ち上がり、こだまを押しのけるようにして、二人のいるこだまの席へ向かった。彼女たちはのんきに菓子パンを頬張っていた。彼女の帰りも待たずに。それもまた、腹立たしかった。

 私は、不安定だった。何か、重心がずれているようだった。「あの日」から。本当は今にも倒れそうなのに、平気そうに「私」を保っているようだった。私は確かに、ゆがんでいた。しかし私はそのことをまだ気づいていなかった。ゆがんだまま、進み続ける。それ以外の方法を知らなかった。

 こだまの席に着くと、二人はぎょっとしたような顔でこちらを見た。

「こだまをくだらない『友達ごっこ』に付き合わせるのはもうやめてくれないかしら」

 私が睨みつけると、二人はひるんだようだった。

「あなたたちよね、こだまに宿題をさせていたのは」

 返事なんて、待たなかった。

「そのことで、こだまがどれだけ悩んでいたか知ってるの?彼女、泣いていたのよ。肩を震わせてね。あなたたちはただ、宿題をさせただけだと思ってるかもしれないけれど、物事はそんなに単純じゃないのよ。彼女にだって、『過去』があるの。表面的なことだけで考えないで」

 気づけば語気が強まっていた。同時に、教室の静寂にも気づく。構わない。そんなこと。

「それに、あの態度は何?謝罪の言葉の一つもなく、女子テニス部の部員とくだらない話を始めて。その少し前に、こだまがどんな気持ちでいたと思ってるの?呑気なものね。勝手に許されただなんて思い上がらないで」

「みゆきちゃん」

 後ろから、か細い声がする。制服の袖を掴まれている。

 でも、一度調子付いた舌は止まらなかった。私の目の前にいる「敵」を完膚なきまでに叩きのめなさなければならない気がした。

 ――私は、何と戦っているのだろう。

「今日もこだまを遣わせて『友達ごっこ』?いいご身分ね。冗談じゃないわ」

「みゆきちゃん」

 さっきより少し強い声で、彼女はそういった。

「それは違うよ。…私が、みゆきちゃんとも一緒に食べたいって…」

 振り向けばこだまは俯いていた。

「そう。なら二人で食べましょう。こんな『友達』なんかと一緒にいる必要はないわ」

「やめて…。みゆきちゃん、二人は…」

「ごめん、うちら、ちょっと抜けるわ」

 西尾、だろうか、まあ興味がないのでどうでも良いのだが、そいつが静かに言うと、二人は菓子パンの入ったビニール袋を持って教室を出ていった。これで邪魔者はいなくなった。

 

 私は自分の席につき、息を吐いた。

 喉が渇いたので水筒に口をつけると、教室は思い出したように、ひそひそと、話を始めた。たぶん、その中にこだまの声はない。なんの価値もない、くだらない人たちのざわめき。むやみやたらに煩雑な、方針の定まらない数学の回答みたいに、醜悪で、ただただ不快で、辟易させられる、そんな、物言えぬものたちの、慰め。

 私が弁当の包みに手をつけると、こだまが隣に来た。

「いらっしゃい。そこの椅子、使っていいと思うわ」

 私が隣の、昼休みになると教室からいなくなる人の席を指差すと、こだまは悲しげに頷いた。

 弁当箱を右にずらすと、できたスペースに、こだまは小さな弁当箱を置いた。これで本当に足りるのかと心配になるサイズだが、こぢんまりとしていて、奥ゆかしさのある、こだまらしい弁当箱だ。

 私が弁当の卵焼きを口に運んでいると、こだまはぽつんと言った。

「由美ちゃんたちのことはもういいの…」

 どこか悲しく、儚ささえある声だった。

 無理もない。

 私はじっと、箸の手を休めながら、この、大好きな人の、落ち着いた声の続きを待った。

「…みゆきちゃん、言ってたよね。私のことには首を突っ込まないって。これは私の問題だからって」

 優しく、非難を込めて、彼女はそう言った。私は、おかしなことに、彼女のそんな言葉にも軽い興奮を覚えていた。彼女の感情のベクトルが私に向かっていることが気持ち良かった。

「そうね。ごめんなさい」

 まずは一旦謝って、彼女の反応を伺った。彼女は俯いたままだった。

「でもね、甘いのよ、こだま。あなたは優しすぎるわ。二人のこと。それだけじゃない、私のことも…」

 言ってから、はっとした。

 ――何を言っているんだ、私は。

「とにかく、その甘さはいつか、きっと、あなたを傷つけることになると思うわ。それがね、見ていられなかったのよ、私」

 そう言って、ゆっくりと箸を進めた。こだまは、あまり食欲がないようだった。同じく私も、あまりなかった。それでも、彼女はゆっくりと、でも着実に前に進んだ。残さずに、綺麗に食べ終えた。そんな彼女が、私はやっぱり好きなのであった。

 彼女は、悲しげな顔をしていた。それについて、罪悪感がないわけではない。少なくとも、彼女の望んだ結果ではなかっただろう。私の余計な「干渉」で、振り回してしまった。結果的には、そうなってしまった。

 それでも私はこだまを知る者として、言わなくてはならなかったのだ。彼女の苦しみを知らず、彼女を傷つけていた二人にはこだまの「友達」でいる資格などない。彼女は優しいからそばにいてあげているのだろうが、二人には適当な処置、罰が必要なのだ。だから私が二人にそう言った。

 ――罰?

 私はその言葉に魚の小骨が喉に引っかかったような感じを覚えた。

 

 放課後になって、私はこだまに声をかけた。彼女は昼休みよりいくばくか、表情が穏やかになっていた。

「みゆきちゃんさ、二人に、『表面的なことだけで考えないで』って言ってたけどさ」

 廊下を歩きながら彼女は言った。

 彼女の声は、違っていた。今までのそれとはまるで違う。澄んでいて、迷いがなかった。彼女の穏やかな顔が脳裏に浮かんだ。私は直感的に何かを覚悟しなければならなかった。

「みゆきちゃんも、そうじゃないかな」

 優しく、そう言った。震えを覚えた。

「みゆきちゃんも、二人のこと、表面でしか見てないよ。二人とも、普段はちょっと、ふざけてたりするけど、根は友達思いの、優しい子だよ。実はね、あの日、私が二人に話した後ね、言ってくれたんだ。これから嫌なことがあったら、遠慮なく言ってって、友達でしょって。二人が謝らなかったのは、そういうことなの。さっきはびっくりして、そのことみゆきちゃんに言えなかったけど……」

 頭が真っ白になった。

「私にはわからない……」そう言った。

「あの二人はこだまを傷つけたのよ。それなのにそのことをあの二人は自覚していない。こだまは何も悪くないのに、こだまだけが傷ついていた。……そんなのおかしいわ」

「私のことはいいの」少し間を置いて彼女は言った。

「私が傷ついたのは、私が悪いんだもん。二人はたぶん、冗談のつもりで言ったんだよ。私ともっと仲良くしようとして。もっと本音で言い合える仲になろうとして。それを私が勝手に真に受けちゃっただけなの。そんな冗談を受け入れられる余裕が――その時の私にはなかったから。だから、二人は悪くないよ」

「でもそんなの……わがままじゃない。本音で言い合える仲になりたいなんて。どうしてこだまがあの二人に合わせなきゃいけないの」

 こだまは小さく笑った。

「私は引っ込み思案っていうか、はっきりものを言うのが苦手だったから、あの二人といて新鮮だと思ったの。なんでも言い合える、なんでも言っていいっていう雰囲気が二人にはあってさ。だから一緒にいるだけでも楽しいって思ってた。できたら私もそうなりたいって思ってたの」

「……こだまは、納得してたのね」

「うん、そうだよ」

 こだまはこちらを見て微笑んだ。

 たぶん私はこの時彼女にキスをした時の話をするべきだった。私にキスをされてどう思ったか、嫌だったのか、私を嫌いになったのか、聞くべきだった。

「ごめんなさい」

 しかし私は無意識に謝っていた。

「私じゃなくて、二人に言って。二人ならきっと、わかってくれるから」

 こだまは柔らかな声で、きっぱりと言った。

 私は二人、いや、こだまを含めた三人を、表面的にしか見ていなかったのかもしれない。

 彼女たちはこだまに宿題をさせていた。

 だが、もしこだまが「嫌だ」と言ったら、すぐにやめるつもりだったらしい。

 嫌なことは嫌だとはっきり言う。それが、彼女たちがこだまともっと親密になるために、求めたことだった。遠慮なんかしないで、本音で言い合える関係を築きたかった。

 でも、それは。

 二人の、わがままなんじゃないか。こだまの気持ちを汲まず、彼女たちのルールをこだまに押し付けているのではないか。それに、嫌だと言わなかったからとはいえ、本当に宿題を押し付けるなんて、都合が良すぎはしないか。

 わからない。こだまは納得しているようだが、私はまだ、納得まではいかない。

 固い友情の構築段階だったのだろうか。本音で言い合える仲になるための、必要な手順だったのだろうか――私には「友達ごっこ」にしか見えなかった、それは。

「私、間違ってたのかしら」

 私は、こだまのため――正確には自分自身のために――自己を正当化し、戦った。それは、間違っていたのだろうか。無駄だったのだろうか。彼女の答えが聞きたかった。

「わかんない。でも、私が言えなかったことを言ってくれたのは、嬉しかったよ。『友達ごっこ』はやめてほしかったけど」

 彼女はうっすらと、微笑んでいた。

 その時、とても、敵わないと、本能的に、思ってしまった。私は自分のために好き勝手言って、三人の関係に「干渉」した。そんな私にこだまは微笑んで優しく言葉をかけてくれる。

 そんなこと、普通はできない。

 ――私が傷ついたのは、私が悪いんだもん。

 こだまの言葉が再び頭の中で反響する。

 彼女は私に欠けたピースなんかじゃない。もっと壮大な――。私は、この恐ろしい想像を拭い去ろうとした。すると、昇降口についていた。

 彼女はいつも通り、顔の横のあたりで小さく手を振って、背中を向けた。その優しい背中に、私はちょっとした畏怖を覚えた。

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