第9話


 三限の数学の前に、私は職員室に行った。授業前の御用聞きは、もう一人の係がするのだが、今日は私がやると申し出た。すると彼は、もしレポートが出たら集めるよと言ってくれた。熊谷先生の席を探し、用件を伝えると、彼は豪快に笑った。

「学級委員長の直々の頼みなら断れないなあ!」

 そう言って彼はレポート用紙の束を渡そうとする。

「あ、あの。私が頼んだことは内緒にしておいてくれますか。それと、授業の前に配るのではなく、いつも通りでお願いできますか」

 いつも通り気まぐれに、とは言えなかったが、彼は何か面白そうに頷いた。

「そうかい。わかったわかった。いやあ、クラスのことを考える、頼れる委員長ですなあ!」

 彼はまた豪快に笑う。数学教師って融通がきかないイメージだったが、私はこの時その認識を少し改めた。

 彼は約束通り気まぐれで問題を出してくれた。パッと見た感じそれほど難しい問題ではなかったので、不満の声は上がらなかった。でも、少しまずい。これでは西尾さんたちは自分で宿題をしてしまうかもしれない。

 だが、その心配はいらなかった。

 昼休み。私は弁当を机の上に出すと、こだまの席の方へ耳を研ぎ澄ませた。

「こだま~。よろしく~」

 来た。眠そうな声でレポート用紙を持ってくる二人。さっきの授業で爆睡していた彼女たちは、レポートの問題の内容すら知らないようだった。私はこだまの言葉を固唾をのんで待った。

「ごめん。私もう二人の分の宿題はできない」

 小さく、彼女はそう言った。

「西尾さんも東野さんも、部活が忙しいのはわかるけど、レポートくらいはちゃんとやってほしい。私がするんじゃ二人のためにならないし……」

 こだまはちゃんと、言えた。

 これで言えなかったら、彼女はもう前に進めなくなってしまうかもしれなかった。

 ひとまずは安心。

 三人の中で生まれたのは沈黙だった。

 ——沈黙。

 それの後ではどんな言葉もどんな行動も、受け入れなければならない。

 耐え難いような、お腹が痛くなるような時間が流れていく。

 でもこだまの方がもっと辛いはずだった。

 だから私も、耐える。

 二人が何を言っても私だけは味方だと言ったから。

 私だけが彼女の涙を知っているから。

 だが二人の返事は拍子抜けするものだった。

「……そうか。うちら、ちょっとこだまに甘えすぎてたかもね」

「確かに。最近授業とか全然わかんないし」

 いつもと違う、真面目なトーンだった。そんな二人を包み込むような優しい声が響いた。

「わ、私。最近ちょっと頑張ってるから、お昼の後、二人に教えるよ。わからないところがあったら、なんでも聞いていいから」

「でもこだまちん。由美の馬鹿さ舐めちゃいかんよ」

「ちょ、あんただって最近はそんなに変わらないでしょ!」

「四則演算で止まってる由美と一緒にされたくないですぅー。ほんとどうやってこの高校に入ったのか知りたいわ」

「あたしはね、やるときにはやるの。そうやって皮肉しか叩けないあんたとは違ってね」

 今にも罵り合いが始まりそうな二人をこだまがまあまあとなだめる。

 二人はこだまの方を見た。

「ねえ、ほんとに聞いていいの?」

「うん。私もまだわかんないところあるかもしれないけど」

「うちら手強いよ?自慢じゃないけど、相当だよ?」

「えへへ、私でよかったら、いつでもいいよ」

 西尾さんと東野さんが顔を見合わせた。

「じゃあここはひとつこだま先生にご教授願いますか」

「そうしましょーか」

 それを聞いてこだまは微笑んだ。


 私が弁当の包みに手をつけると、教室の後ろの方から声がした。

「失礼しまーす」

 理系クラスにふさわしくない華やかな声だった。

「あ、由美と佳菜子いた。今日の部活ミーティングだってー」

 そう言うと女子三人組はこだまの席に集まって来た。

 それだけでクラスの雰囲気が変わって、男子のどよめきが聞こえてくる。

「あれ?もしかしてこれこだまちゃん?」

「あ、ほんとだ可愛い」

「うーむ、由美にはもったいないですなあ」

 三人はこだまを取り囲むように立ったので、中にいる彼女の様子が見えなくなった。

「ちょ、ちょっとあんたたち何しに来たのよ」

「なにって。ミーティングのことを伝えに来たの。ついでにちょっとお話でもと思って。こだまちゃん肌白いねー」

 いつの間にか、こだまの周りだけ異質な空間が広がっていた。

「こら、こだまに気安く触らないの」

「あれ、由美さん嫉妬ですかぁー?」

 東野さんが茶化すように言うと、笑いが起きた。

「こだまちゃーん。由美ってね、部活でもこだまちゃんのこと可愛い可愛いってうるさくってね」

「かと思えばまだ名前で呼んでくれないってしょげてたりすんの」

「それがもうおかしくって。ぷ。この前も…」

「あーもううるさいうるさい。用が済んだらさっさと出てって!」

 西尾さんが顔を真っ赤にしながら、三人を押し出そうとする。そのとき三人のうちの一人がこだまに何か耳打ちをしているのが見えた。テニス部三人は「じゃっ」と言って教室を出て行った。

「あーもうあいつらはまったく」

 照れを隠すように西尾さんは言った。

「ふ、ふふ」

 こだまはもう我慢できないというように赤くなりながら吹き出していた。

「な、こだま、なんで泣いてんの?」

「だ、だって、おかしくって。っふふふ」

「おー。こだまちんの笑い泣きはレアですなあ」

 そう言いながらカメラマンのポーズをとって、シャッターを切る東野さん。ふてくされたような、嬉しそうな表情を浮かべる西尾さん。

 その様子を私は遠巻きに眺めていた。

 そしてこだまはひとしきり笑い終えると、顔を上げて言うのだった。

「ちょっと遅くなったけど、お昼にしようか。由美ちゃん。佳菜子ちゃん」

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