第8話


 週明けの月曜。

 放課後のチャイムが鳴ると、こだまは意を決した表情で「一緒に帰ろう」と言ってきた。

 二人のことだろうと察しがつく。土日で結論が出たのかもしれない。

 私は折れてしまいそうな勢いでノートをかばんに押し込んで振り向いた。

「お待たせ。帰りましょうか」

 廊下に出ると、歩く生徒の足音がやけに騒がしく感じた。

「みゆきちゃん、あのね」

 私から聞くまでもなく、こだまから切り出してきた。

「私、やっぱり二人の分も宿題をするのは間違ってると思う」

「そう」

「だからね、私、言わなきゃ」

 彼女の声を聞いて気づいた。

 吹っ切れた感じではない、どこか迷いが混じった声だった。

 しかしそれは当然なのかもしれない。

 今はもう放課後なのだ。つまり今日は「言えなかった」ということになる。言おうと思っていても言えなかった、ということになってしまう。

 彼女は私に話しているのではなく、自分に言い聞かせているのだ。

 そう思えた。

 でもそれでは駄目なのだ。

 何かが足りないままだから。

 では何が?

 私は無言のまま歩いた。いつもは心地いい沈黙も、今日は不気味なものに感じられた。

 周りの雑音が今日はやけに耳につく。

 苛立つ足先をスリッパの奥まで深く入れ、つかつかと歩くうちに昇降口についてしまった。

 すると、外から黄色い服がこちらに向かって走ってくる。見覚えのある様子だったので見ると、西尾さんだった。テニスの練習着を着た彼女は、こだまの姿を見て目を丸くした。

「あれ、こだまじゃん。へえ……委員長と一緒って珍しいね」

 息を切らすことなくそう言うと、彼女は私をまじまじと見た。

「に、西尾さん……。どうしたの?」

「いやー教室に水筒忘れちゃったみたいでさー。取りに来た」

 そして彼女はこれ以上時間を食ってはならないという様子で「じゃっ」と言うと階段の方へ消えて行った。

 私はこだまの声が震えていたことを聞き逃してはいなかった。何も言わずに靴を履き替えて、先に外に出る。後から昇降口を出て来た彼女は、今まで見せたことのないような辛そうな顔をしていた。

 ——このまま彼女を帰してはならない。

 いつものように手を振ってバイバイなんて、気づかないふりはできない。さすがの私でもわかる。

 こういう時、どうしたら良いか。経験に頼れない私は直観に任せることにした。

 こだまの方に歩み寄り、左手をつかむ。後ろで「えっ」と小さく驚く声がしたが構わず進んだ。足には力が入り、いつもより早足になって、後ろからこだまの足音が小さく聞こえた。正門を出ると目の前にある信号はタイミング悪く赤になった。

 立ち止まると、右手の温もりがむず痒くなった。

「あ、ごめんなさい。これから用事とかあったかしら」

 手を離しながら聞く。

「……ううん。大丈夫」

「そう。じゃあついて来て」

 信号が青になり、私たちは渡って目の前にある亀池公園に入った。亀池公園は市内有数の大きな公園で、しっかり整備されていて西洋的な印象を与えるところもあれば、日本庭園のような場所もある。和洋折衷といったところだろう。

 青紫色の紫陽花が、道に沿うように咲いている。小川は緩やかに流れていて、生き物たちの合唱が聞こえる。遊具の周りでは小さい子たちが甲高い声を上げている。

 いつもならその一つ一つに会話が生まれるはずだった。こだまと二人で一緒に学校の外に出るのは初めてだが、そういう確信があった。

 しかし今はそうなっていない。今はそういう時じゃない。

 ——沈黙。

 学校の中では不気味だったそれは、外に出ると少し紛れるようだった。

 私たちはひたすら歩いた。何も言葉は交わさなかったが、こだまが三歩後ろで付いてきていることはわかっていた。それさえわかれば十分だった。

 細い道を抜けると、目的地に着いた。小さな広場に、紺色のベンチが一つ佇んでいる。

「静かなところでしょう。あまり人が来ないからね、よく使うのよ」

 後ろにいるこだまにそれとなく言うとベンチに腰掛けた。六月の日差しはやや強いが、大きな木がちょうど影になっていて涼しい。

「ほら。いらっしゃい」

 突っ立ったままのこだまに声をかけると、彼女はリュックを左端に置きながら、申し訳なさそうに座った。

「暑かったでしょう。お茶でも飲む?お腹が空いていたら、お菓子もあるわよ」

 こだまは小さく首を振った。カバンを開けようとした手が止まる。目的を失った手は仕方なく、「着席」の位置で落ち着いた。

 雀が地面を啄む様子がぼんやりと見えた。

「何か、話したそうな顔をしていたから……」

 私は彼女をここに連れ出した理由を説明しなければならなかった。鬱屈とした、奇妙な沈黙のある学校の中ではなく、今まで二人で来たことのない外の世界に、わざわざ来たわけを話さなければならなかった。

 本当は「話したそうな顔」なんかではなかったと思う。彼女が話をするときはいつも楽しそうにしてるから。

 たぶんこれは、私が「聞かなくてはならないこと」なのだろう。

 そう思った。

「みゆきちゃん、ごめんね」

 その声はとても弱かった。ここではないと聞き取れないような、小さな声だった。

 彼女の方に目を向けると、目に涙を浮かべていることがわかった。「どうしたの」と声をかけそうになるのをこらえながら、私は遠くの地面を見た。特に何かがあるわけではない、ただの地面。ただその一点を見続けることだけが,今の私にできることだと思った。

 少しの沈黙が永遠のものに感じられた。

 でもこれは苦痛ではなかった。彼女の言葉を待っている時間になら、意味があると思えた。このまま彼女が夜になるまで話さなかったとしても、待っていられる自信があった。だってこれは私が聞かなければならない話だから。

 しなければならないことから逃げるのは嫌だった。

 彼女がゆっくりと話しだした時には、さっきの雀は見当たらなくなっていた。

「……中学生の時、同じクラスの男の子に告白されたことがあったの」

 話はなぜか彼女の中学時代に遡っていた。

「私、そういうのよくわからなかったから…クラスの友達に相談したの。そしたら…クラスの女子全員にそのことが知れ渡っちゃってね。その中に、その男の子のことが好きな子がいて。……それで、私…。友達は、こんなことになるなんて思わなかった、ごめんねって、言ってくれたんだけど…。それから話をしてくれなくなっちゃって。みんなも、私が話しかけても答えてくれなかったり、とか、らく、がきと、か、いや、がらせを、たく、さん……」

 その時、泣きじゃくる声が聞こえたのではっとして彼女の肩を抱き寄せた。

「みゆき、ちゃんには、話さ、なきゃって……」

 しゃくり泣きをする彼女を、強く、強く抱き寄せた。彼女の震えが私にも伝わって来た。

 頭の中では、言葉の上では理解できた。理解はできても、信じることはできなかった。この柔らかい肩がそんな経験を背負っていたことを、簡単には受け止めきれなかった。

 胸が苦しい。

 今まで漠然としていたこだまの「違和感」が露わになる気がした。

「西尾さ、んたち、がね、その、女の子に、すごく、似て…てね。二人は違うって、わかってるのに、二人は優しく、して、くれるのに…。私、信じられなくて、嫌われるのが怖くて…」

 そこで私の中で話が繋がった。ずっと数学の宿題を断ることができなかった理由も。言いたいことが言えなかった理由も。取り繕った笑顔を浮かべなければならなかった理由も。

 全てはこだまが、過去の辛い出来事を二人に重ねてしまっているからだった。

 数学の課題は、ただのレポート用紙だ。それでも、それを渡されることが、それを断れないことが、彼女にとってどれだけ辛いことだったのか。私は知らなかった。それどころか、二人で課題をするのを楽しんでもいた。二人が宿題を押し付けることを、感謝さえしていた。

「私、人との付き合い方が、わからなくなっちゃって、中学の時のこと、言い訳にしたら駄目だって、わかってるのに……」

 それがこだまの違和感の正体だった。

 言葉にならない声をあげて泣くこだまに、私は顔を近づけた。抱き寄せた左手からは震えと、彼女の熱が伝わって来た。左手だけではない。彼女に密着した部分全てから、彼女の熱が伝わって来た。熱気を孕んだ彼女の匂いはふんわり香った前よりもずっと濃密だった。


 ――いつまでもこうしていたい。不謹慎にもそう思ってしまった。


 彼女の熱を受け取って、汗をぐっしょりとかいた時、こだまの肩の震えが収まった。そっと顔と手を離すと、間を埋めるように冷たい空気が入り込んで来た。近くの地面で雀が二羽、仲よさそうに地面に落ちている何かを啄んでいる。

「ありがとね。こんな私の話を聞いてくれて。みゆきちゃん、忙しいのに」

 こだまが涙を押さえていたハンカチをしまいながら言う。

「いいのよ。私はこだまの味方だから、これくらいは当然のこと。礼なんていらないわ」

 こだまは安心したように頷いた。

 彼女の声はいつもの調子に近づいていた。顔も溜め込んでいたものを吐き出したようにすっきりしている。私は話を聞くだけだったが、それで彼女が楽になれたのなら、それ以上のことはなかった。

「あとね、この前は自分で考えてって言ったけれど、一人で抱えきれなくなったら、ちゃんと相談するのよ、いい?」

「うん」

 こだまの返事があまりにも素直なものだったので、ちょっと恥ずかしくなる。

「ああそうだ。いいものがあるの」

 かばんの中身を整えながら、小さな包みを取り出した。

「父のイタリア土産よ。お腹すいたでしょう」

 包みを開け、クッキーを一枚、こだまに差し出す。彼女はそれを受け取ると、遠慮がちに口に運んだ。

「ありがとう。すごく美味しい」

 その様子を見てから、私も口をつけた。

 この甘さが、こだまの過去を少しでも癒してくれることを願いながら。

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