第10話


 放課後になったので、今日は私からこだまに声をかけた。

「よかったわね」

 廊下を歩きながら、それとはなしに言う。

「うん。ありがと」

 特に続ける言葉もない。私は無言で歩いた。

 こだまと二人の間にある溝は埋まりそうだった。少なくとも溝はもう見えなくなっていた。その中身を埋めていくことはこだまが時間をかけて行えばよく、それは可能だと思われた。

 だから、これで良かった。

 これで彼女は宿題のことで泣かなくてもいい。二人と過去の辛い出来事を重ねて苦しまなくてもいい。それは私にとっても嬉しいことだ。だから私もそれを素直に喜べばいい。

 でも、これでこだまと一緒に宿題をすることはなくなる。――いや、なくなることはないか。またわからない問題があったら私に聞きに来るかもしれない。でも、その時には――

 こだまはいつものように私が考え事をしてると察して、静かに隣を歩いていた。私は彼女の方を見ると声をかけられそうな気がしたので、あえて見ることはしなかった。彼女の些細な気遣いに感謝しつつ、私は思索にふけった。

 彼女の問題が解決した時、私の存在意義はどうなるのだろう。そんなことを考えた。私はめでたく彼女の「友達」の一人になるのだろうか。それは私の望んだことだったのだろうか。そもそも私は何のために彼女の味方になったのだろうか。

 「友達」の一人、か。

 その時私は彼女と仲良くしている二人の様子を思い出した。私もあの中の一人になるのだろうか。そう考えると私は反射的に拒みたくなった。それは私と彼女の適切な距離感ではない気がした。今みたいに一緒に昇降口まで帰って、少し話をして、彼女に勉強を教えるくらいの距離が一番いいと思った。

 いや、本当にそうか? 私は本当にこの距離感でいいのか?

 答えはなかった。ただわからない中でなんとなく、彼女が離れていく気がした。でも考え直して、それは違うと思った。ありえないと思った。彼女は離れていかない。なぜなら「問題」が終わった後も彼女はこうして隣にいてくれるから。私と一緒にいて彼女は楽しそうにしてくれるから。

 頭が少し痛くなった。

 昇降口で靴を履き替えようとすると、こだまが右手を掴んで来た。

 はっとして振り向くと、昨日彼女を連れ出した私の右手が、彼女の両手に包まれているのがわかった。彼女の温もりが、実感をもって一気に近くなる。私は彼女の手を通して、命を吹き込まれている気がした。

 ――こだま。

 鼓動は早くなり、頬はすぐに熱くなる。身体は呆れるくらい単純だった。

「みゆきちゃん。本当にありがとう。私、みゆきちゃんのおかげで、二人にちゃんと言えた。みゆきちゃんのおかげだよ」

 近くのこだまの声はいつもより過敏に脳を揺らした。見上げるようにして言う彼女は、天使のように美しい。

「……違うわ。こだまは自分で、自分の力で言ったのよ」

「そうじゃないよ。みゆきちゃんが私の話を聞いてくれたから、私の味方だって言ってくれたから。……だから言えたんだよ」

 彼女はとても近くにいた。私は彼女の両手を通して、彼女との距離を知ることができた。そしてこのまま離れたくないと思った。ずっとこのままでいたい、こだまの温もりをいつまでも感じていたい。確か、昨日も同じことを思った。

 しかし、時間は無情だった。

「みゆきちゃん、ありがとね」

 彼女がそう言いながらそっと手を離すと、その間を風が吹き抜け、熱くなった身体を冷やした。空いたこだまとの距離が、物理的なもの以上に残酷に見えた。

 ――嫌だ。離したくない。

 私は両手でこだまを抱きしめた。とっさの行動に身体がかっと熱くなる。それでも、この温もりが欲しかった。こだまがここにいることを確かめたかった。

「みゆき…ちゃん?」

 こだまが私の名前に疑問符をつける。

 彼女はきっと、何のつもりなのか、と尋ねているのだろう。

 その時、これ以上は駄目なのだと察した。すなわち、これも駄目なのだという意思が、明確に伝わった気がした。この距離は友達としては近すぎる。いくら私が彼女に感謝される立場にいても、適切な距離感というものがある。これの目的がたとえ親愛を示すものだったとしても、放課後の下駄箱で彼女に抱きついていることを正当化するには不十分だ。おそらくいかなる理由も私が彼女を抱きしめる理由としては不十分なのだと思う。

 この行動は私にとって合理的なものではなかった。

 彼女は柔らかかった。どこまでも押し縮められるスポンジのような柔らかさではなく、ちゃんと中身があって、芯があった。彼女は暖かかった。昨日あれだけ私に熱を与えたのに、それでも彼女にはまだ熱があった。そして彼女は優しかった。彼女は私を突き放すことなく、抱きしめられたまま私の返事を待っていた。

 私はそっと手を緩め、こだまを見た。困った顔をしていると思った。だがそれは違った。

 ――こだまは微笑んでいた。

 このくらいどうってことないって顔で。これは不思議なことではなく、ごく自然なことなのだというふうに。その真っ直ぐな瞳には私への厚い信頼が見て取れた。少し赤くなった頬は若干の照れと喜びを示していた。彼女は次の私の言葉を心待ちにしていた。これまで何度か彼女を支えた私の言葉を、彼女は待っているはずだった。

 それがいけなかったのだと思う。


 私は顔を近づけ、唇にそっと口づけをした。それは何よりも柔らかく、優しく、私を溶かした。彼女の胸は制服越しに控えめに自己主張をした。彼女の華奢な身体つきと、柔らかな唇。確かな温もり、そして熱気を帯びた濃密な香りが一体となった「こだま」が全身に染み渡り、心地よい響きがした。


 ふと、話し声が聞こえてきた。それまで耳栓をしたように静かだった空間が崩壊する音がして、はっと我に返る。両肩を掴んでこだまを離すと、彼女は茫然自失といった様子で立ち尽くした。彼女の顔は見なかった。

 こだまとの間の空気が頭を冷酷なほどに冷やした。身体は急速に冷やされた。私は彼女に溶かされたまま過冷却してしまった。私はすぐに靴を履き替え、逃げ出すようにして走った。

 すでに雨は止んでいた。

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