第6話


 まだ五月だと言うのに、暑い日が続いている。やっとの思いで教室に入ると、冷たい飲み物が欲しくなった。

 学校にいるとき、私はいつも一人でいる。そのことに不自由を感じたことはないし、これからも感じることはないだろう。

 こんなだから、クラス内の人間関係には疎い。学級委員として、一応クラス全員の顔と名前は覚えたが、誰と誰が仲がいいだなんて知らないし、興味もない。

 だが、こだまに関しては少し事情が違う。私は彼女のことを知るほどに、少しずつ彼女に興味を持つようになっていた。彼女と話していると、欠けたピースがはまっていく感じがして落ち着く。私はすっかりその心地よさの虜になっていたのかもしれない。

 自分から必要以上に距離を縮めることはしないと思いつつも、無意識のうちにこだまに目線を送ってしまっていた。そうするとなぜだか安心できたのだ。そんな日々が続いていたから、彼女の周りの人間関係だけは例外的に把握できた。

 西尾由美さんと東野佳菜子さん。こだまとよく一緒にいるのはこの二人だ。二人とも女子テニス部であり、日焼けで肌が少し黒い。西尾さんは明るく元気、というか騒がしい人。でもクラスで話し合いをするときによく発言してくれるので、学級委員としては助かっている。東野さんは、いつも西尾さんにくっついて、一緒にはしゃいでる人。ああいうのを、ノリがいい人、だというそうだ。

 それにしても、どうしてこの二人はこだまと一緒にいるのだろう。活発な二人はこだまと気の合いそうな感じでもない。こだまは文芸部だから、部活のつながりではないし、電車通学という彼女の中学の時からの友達という訳でもなさそうだ。

 まあそれでも、彼女はそんな二人とも表面上はうまくやっているように見える。

 ——問題なのは数学の宿題を押し付けられることくらいか。

 別にそれは私にとってはさほど問題ではない。宿題を集めなければならないので、どうせ帰る時間は変わらないし、それだったらこだまに数学を教えるほうがいい。会話の機会、というのは苦手だが、数学のことなら伝えることが決まっているので気が楽だ。

 それに。

 私はこだまがせっせと問題を解いて、わかった喜びを表情に出すのがたまらなく好きだった。それは、自分のやってきた勉強が人の役に立っていると確信できる時間でもあり、至福の時と言える。それだけに、おかしいと思いつつも、そんなささやかな喜びを与えてくれる二人に、私は密かに感謝さえしていた。

 そんなある日。

 いつものように宿題を終えて、いよいよ二人の分も書き写そうとした時だった。

「みゆきちゃん」

 さっきまでとは打って変わって、沈んだトーンのこだまの声に思わずはっとする。

「やっぱりこれ、よくないよね……。みゆきちゃんにも迷惑かけちゃうし、西尾さんたちも、自分でやらないとわからなくなっちゃうし……」

 私に迷惑をかけていることはどうでもいい。自分で選んでしていることだから、さして迷惑とも思っていない。課題をしない二人の心配をするのがどことなく彼女らしかった。

「そうね。じゃあそう言ってあげたら」

 少し、とげの混じった言い方になった。

 それができるならそうしているだろうし、こうしてこだまと一緒に宿題をすることもない。何か、二人にはっきりそう言えない理由があるのだろう。

「う、うん。そうなんだけどね……」

 彼女の暗い声は、初めて話した時のこだまを彷彿させた。

 彼女は、話しかけてくれる友達が欲しいと言った。そしてそんな存在は、西尾さんたちだけだと。

 そういえばこだまは、私のことを「みゆきちゃん」と呼ぶ。初めて話した時にはもうすでにそうだった。それに対し、二人には「西尾さん」「東野さん」と呼んでいる。仲良くしているように見えて、まだまだ距離があるのかもしれない。

 彼女は何か目に見えないものを恐れているように見えた。

「怖いの?」

 気づけば私はそう聞いていた。

 不意をつかれたように、こだまは固まる。

「拒絶されるのが、怖い?」

 もう一度聞く。拒絶、で合ってるのかはわからないが、彼女の気持ちを推し量ってみる。少しの沈黙の後、こだまは「そうかも」と小声で呟いて頷いた。

「それじゃあ私が二人に言ってあげようかしら」

「それは!……だめ、だと思う」

 徐々に小さくなるこだまの声。

 私に迷惑をかけさせたくないこだまならそう言うと思った。

「そうね。これは、その、こだまの問題だから、私が首をつっこむのはおかしいわね」

 こだまはこくんと頷く。

「だから、こだまが自分で考えて、納得のいく答えを出してちょうだい。それと、あと……」

 これはわざわざ言うことではないのかもしれない。でも彼女はその「わざわざ」を私にしてくれたのだ。

「私は何があっても、こだまの味方だから、ね?」

 だからほんのりと熱くなった頰の近くから慣れない言葉が飛び出していくのは自然なことだった。

 こだまは俯いたまま、頬を少し赤く染めて、またこくんと頷いた。

「とりあえず今日のところは二人の分もやっちゃいましょう」

 こちらの照れを悟られぬよう、手元にあるレポート用紙に手をつける。

 二人で課題を写しながら、ふとこだまの横顔に目を向けた。彼女はほっとした表情をしている。

 よかった。

 私の「わざわざ」にも効果があったみたいだ。言葉はちゃんと彼女に届いていたらしい。

 心臓の音を聞きながら書いた文字は、いつもよりちょっと濃くなった。

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