第5話

 非日常だって、一週間も続けば日常になった。

 ペンキを上から塗り重ねていくように、日常も移り変わっていく。

 クラスでのこだまは、西尾さんと東野さん、あの、数学の宿題をこだまにさせている二人と一緒にいるようだった。だからそこではあまりこだまと話す機会はない。

 こだまは彼女たちといるときは私と話すのを避けているように思う。

 放課後になると女子テニス部である二人はさっさと教室を出ていくので、それを見計らってこだまは一緒に帰ろうと言ってくる。少し時間をおいた方が廊下が静かで会話に集中できるので、私にとっても都合が良かった。

 会話にも少し慣れてきた。

 私は話すよりも聞き手に徹することにしていた。話すのはまだどうしても苦手だし、聞き手の方が会話が円滑に進むようだった。

 こだまの声はか弱いながらも心地よく、退屈することはなかった。私が考え事で話すのが億劫になるときは、こだまはそれを察してくれて、何も言わずにただただ隣を歩いてくれた。それがとても、居心地のいいものだった。

 教室から昇降口までの短い距離の会話ではあるが、それは確実に私の生活の中に溶け込んでいた。

 そんなある日のこと。

 その日も数学の宿題が出た。

 例によって数学の教科係が入院しているため、私がその代役を担っていた。

 課題が出るのは先生の気分によるところが大きい。授業中適当に問題を選び、「放課後までに出しとけよ~」と言う。そうなると私に仕事が回ってくる。御用聞きはもう一人の教科係がして、先生の気まぐれな宿題は私が集めると決めているからだ。数学の得意な生徒は授業中に終わらせてしまうが、難しい問題が出るとなかなか出せずに放課後を迎えてしまう者が出る。

 その日は少しひねった問題だったので、放課後になっても教室に残り、問題と格闘する生徒が何人かいた。一人で悩んでいる人もいるが、こういうときは友達に聞いて宿題を完成させる人が多い。

 だから、こだまが私のところに来るのでは、という予感は的中した。

「でね、みゆきちゃん。相談なんだけど……。数学、教えてもらっていい?」

 いつもなら一緒に帰ろうと言うタイミングで彼女はそう言った。

「三人分、あるのね」

 彼女は右手に筆箱、左手に課題用のレポート用紙を三枚持っていた。

「うん……。だから、私がわからなかったら二人の分も……」

 二人。西尾と東野はもう部活に行っていて教室にはいないようだった。

 その二人のためにそこまでするなんてこだまも物好きだと思う。

「わかったわ。そこに座って」

 空いているとなりの席を指し示すと、こだまは私の机にくっつけて、ちょこんと座った。

「それで、どこがわからないの」

「う、うん。えっとね、立式はこうやってできたんだけどね、ここの計算で詰まっちゃって……」

 集めているレポート用紙の束を机の左側に動かし、右にいるこだまのレポート用紙を覗き込むと、こだまらしい柔らかな筆跡で数式が書かれているのが見えた。

 字というものは人を表すんだなと思う。

「そうね。方針はあってるわ。そこの計算は…見かけに騙されちゃ駄目よ。細かく分けて、授業中説明してた解法に当てはめるだけ」

 人に教えることはほとんどないのだが、授業の範囲内なら自信があった。

 こだまは「う、うん。わかった。やってみる」と言って黙々と計算を始める。

「そう。第一式と第二式は公式を使って解けるわ。第三式は…」

 こだまはまだキョトンとした様子だった。

「ほら、授業中説明してたでしょ」

 カバンから数学のノートを出してこだまに見せる。基本家に持って帰るのはノートだけで、教科書などは教室のロッカーにしまってある。

 こだまは私のノートとレポート用紙を見比べているが、まだわからないのか、眉のあたりに手を当てて首をひねっている。ここまできたらわかってほしいのだが、初めはちょっとしたことでつまづくものだろう。私は彼女が見ているページのある部分を指差した。

「こことここの形が同じでしょ?だからこの解法が使えるの」

 すると突然彼女が手を叩いた。

「あ!そういうことか!確かに同じ形をしてるもんねえ」

 そういうとこだまはまた黙々と計算を始めた。

 なんだかその様子がとても愛らしい。要領よく教えられたという気持ちも相まって、なんだか嬉しくなってしまう。

 もしこだまに教えることがなかったら、私はこの問題を機械的に解いたまま、再び考えることはなかったかもしれない。彼女に教えることで、暗くなってしまった解答までの道筋が、再び照らされていくように感じられた。

「どう?」

 解き終えたこだまが紙をこちらにスライドさせて、ちら、と私の方を見る。

「あってるわ」

「やったあ!」

 無邪気にはしゃぐ彼女を見てつい笑ってしまった。

「みゆきちゃんありがとう。わかりやすかったよぉ」

「私もいい復習になったわ。二人の分も終わらせちゃいましょう」

 そういうと、完成した自分の答案を見て嬉しそうにしていたこだまの表情が曇ってしまった。

「あ、忘れてた……」

「片方は私がやるわ。筆跡が違う方がいいでしょう」

 以前の私ならば考えられない行動を、私は自然にとっていた。そしてそのことを特に気にも止めなかった。

「え、そんな。……ごめんね」

 どうしてこだまさんが謝るの、と言いかけてやめた。それよりも目の前のこれを早く片付けてしまいたかったのだ。筆跡を変えて答案を書くうちに教室に残っていた他の生徒も宿題を終わらせたらしく、「委員長サンキュー」などと言って課題を出して教室を出て行った。今日は木曜日で、あと十分もしたら吹奏楽部の部員が教室で練習を始める。

 気づけばこだまと二人きりになっていた。

「みゆきちゃんの字ってかっこいいよね」

 課題を終わらせるとこだまが私の答案を覗き込んできた。ふんわりとしたこだまのいい香りが空気の微かな波に乗ってやってきて、反射的に逃げたくなった。

(ち、近い……)

 でも何か言わなきゃいけない状況だろうということくらいは、私にもわかっていた。彼女の耳が近くにあると思うととても話しづらいのだが。

「こだまさんの字も、素敵よ」

 やっとの思いで声を出す。すると、彼女のセミロングの黒髪が円を描き、長いまつげと大きな目が私を捉えた。

「みゆきちゃん」

 息がかかりそうな距離だ。その時彼女の薄紅色の唇が確かな意思を持って動き出しているのが見えた。

「あのね、『こだまさん』じゃなくて、『こだま』でいいよ」

「え、その……」

 目を合わせることなんてできなかった。頬が熱くなっているのがわかる。彼女にこの距離で話されて平静を保てる人が、はたしているのだろうか。

 呼び捨てで呼ぶこと自体は、友達なら普通のことなのだろう。しかし私は今の彼女の距離の詰め方に順応できるほどの資質を、残念ながら持ち合わせていなかった。

「こ、こだま………………………さん」

「あー!『さん』がついたー!」

 彼女がそう言ってのけぞったので、やっと一息つけた。ようやく脳に酸素が供給された感じがする。

「ごめんなさい。呼び捨てで呼ぶのは慣れていなくて……」

 私が正直に告げると、彼女は「むうう」と何か満足いかないという顔を浮かべた。そんな顔をしたって慣れないものは慣れないのだ。本当に、彼女は。なんなのだろう。思い返せば彼女には振り回されてばかりな気がする。もちろん私のコミュニケーション能力が足りないのは百も承知だが、それを差し引いても、彼女の前ではいつも通りとはいかないことが多い。今までクラスの大人しい女子の一人だと思っていたが、こんなにぐいぐいと距離を詰めてくるなんて思わなかった。

 でも、有り体に言えば、そんな風にわかりやすく急アクセルで距離を詰めてくる彼女の行動が私は嫌いではなかった。むしろ鈍感な私はそのくらいしてくれないと彼女が仲良くしたがっていることに気づかなかったかもしれない。そういう意味では彼女に感謝しなければならないか。そして、感謝の気持ちを示すなら…………。

 手っ取り早い方法が、一つあった。

「それじゃあそろそろ帰りましょうか。吹奏楽部も練習に来るでしょうし……ね。」

 私はいわゆる「馴れ合い」は好きじゃない。時間の無駄に思えるし、そこまでして他人と仲良くしようとは思わない。でも、彼女は違う。よくはわからない。けれど、そんな気がしている。

 口が動き出していた。その動きに呼応して、頭はそれを口に出してみたくなる。そう呼んでみたくなる。たぶん私は。楽しみなのだ。

「…………こだま」

 これから、彼女と一緒に「新しい世界」を見るのが。

「うん!」

 えへへと笑いながら帰る準備をするこだまを見て、喉の奥がぎゅっと熱くなるのを感じた。

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