屋根の下での密へ

和泉瑠璃

寡黙な待ち人

第1話

 長い冬を地中で耐えた芽が萌え出るのと逆行するように、未知のウイルスがいやらしいほどじっくりと世界中に広がっていって、大勢の命が脅かされるようになったとき、東京で緊急事態宣言が発令された。

 感染を避けるために自宅に籠もることを余儀なくされた人々に漏れず、お父さんも自分の弁護士事務所を一時的とはいえ閉じて、家で仕事をすることになった。

 世間の弁護士がどういう働き方をしているかなんて知らないし、興味もないけれど、お父さんはずっとずっと仕事人間の見本のような人で、家の中にいる時間が極端に少ない。私立の学校に通わせてもらって、他の家よりもいいものを食べることができているけれど、学校行事というものに参加してもらったためしはないし、休日だからといってどこかへ連れて行ってもらった記憶もない。

 そういうわけなので、学校の始業式が中止になるどころか、一か月以上の休校が決定されたことよりも、お父さんが家の中にいるということの方が、私にとってはよっぽどの緊急事態なのだった。

 息苦しい。どちらかといえばインドアな性格だし、友達が恋しくなったらオンラインでおしゃべりすればいいので、休校のあいだ家のなかにいること自体は苦にならない。問題は、普段いない人間であるお父さんが家の中にいるということだ。気に障って仕方ない。なにせ、朝起きてから夜眠るまでずっと、お父さんの気配があるというのは生まれて初めてなのだ。もっとも、あの性格でなかったら、もう少し違っていたのかもしれないけれど。

「お父さんってさ、ずっとあんな感じなの?」

「あんな感じって?」

「仏頂面で陰気でだんまりで堅物、ってこと」

「すごい言いよう。……でもまあ、寡黙な人ではあるわよ、ずっと」

「ねえ、なんで結婚したの? 人を愉快にさせるところなんて、ひとっつもないよね?」

 お母さんは、コーヒーの入ったマグカップを両手で口元まで持って行ってから、んー、と言葉を探した。

「悪しき隣人って知ってる?」

「なにそれ」

「弁護士って、昔からそういうふうに言うらしいから。何につけても、ものすごく理屈っぽいから、お隣さんにするとお付き合いがめんどくさい、って」

「えー、いいとこなしじゃん、そんなの。でもそれがなんなの?」

「だからね、仕事柄しかたないのかなって。そういう性格なのは」

「いや、だからといって、お母さんがそれを我慢してまで結婚する理由にはならなくない?」

「まあね……。私もさすがに、あんたが生まれたての赤ちゃんで、ろくに寝る時間がなくてもう限界って泣きついたのに、一蹴されちゃったときはさすがに、失敗しちゃったかも、とは思ったかな」

「なんて言われたの?」

「子供ができたときに、僕が子育てに参加できない理由は説明済みだよね? って」

「うわ、言いそう……」

 私が思い切り顔をしかめて見せると、お母さんは「でしょ」とコーヒーを啜った。

 そうなのだ。外へ出て仕事ができなくなったこの際、家族とゆっくり過ごす時間を持とう、などという発想は、たとえ踵をつかんで真っ逆さまにして激しく身体を振ってやったとしても出てこないのが、我が家のお父さんなのだ。現に、事務所に通勤していないというだけで、働いている時間は変わらず、部屋に引きこもって出てこない。私とお母さんがおやつにするからといちおう声をかけても、返事ひとつない始末。

 お茶菓子がわりのいちごを指でつまみあげながら、ホントどうにかなんないかな、と思う。そんな人間と四六時中同じ屋根の下にいることのうっとうしいことったらありゃしない。

「私、ぜったい弁護士とだけは結婚しないんだ。なんか言うたび、血も涙もない正論言われてちゃ、たまらないもの」

「そうねえ。世の中的には、お金をたくさん稼いでくれるから人気らしいけど、同じ高給取りだったら、お母さんもお医者さんの方がよかったかなぁ。だってほら、弁護士ってふつうに生活していたら用はないけど、お医者さんなら風邪のとき頼りになるでしょ?」


 休校のせいで授業はなくとも、課題が出されているわけで、勉強をしなければならない。教室に座って強制的に話を聞かされるならともかく、誰の目もないところで自ら進めていくのは難しい。そうでなくとも、普段からして勤勉とは言い難い私なのだ。学校から提示されているカリキュラムから、遅れは少しずつ溜まっていく。

 弁護士という人種は、頭がいいものと相場が決まっているらしいけれど、その娘の私は残念ながらというべきか、成績は十人並みがいいところだ。ただ、お父さんの唯一といってもいい長所は、自分がそうだからといって、我が子も優秀であれ、と押し付けないところ。生まれてこのかた、お父さんが私の通知表に興味を示したという話を聞かないし、学校が始まったときに私が落ちこぼれたとしても、やっぱりお父さんは何も思わないだろう。一人娘によくもまあここまで無関心でいられるものだ、とは思うけれど、親のプレッシャーはないにこしたことはない。

 教師が見ているわけではなく、親の干渉もないとなれば、いよいよ勉強する気概が出てこない。とりあえず新学年の教科書を開いてはみたものの、どうにも億劫で目は字の上をすべっていくばかりだ。指の間でまわるペンばかりが軽快で、頭のほうはちっとも回転しない。注意力散漫もいいところ。

 自然、家の中の音が耳に響いてくる。だいたいは、すぐ隣の部屋にいるお父さんが、キーボードをタイプするのが間断なく聞こえてくる。少し遠く、階下から浮かんでくるのが、お母さんがあれやこれやと家事をする音。

 それらを聞くともなく聞いていると、ふいに着信を知らせるものらしい通知音が鳴った。ちょっとびっくりして机の上のスマートフォンへ目を走らせたけれど、画面はしんと静かに暗いままだった。お父さんのだ、と気付くのと同時に、お父さんの応える声がした。

 実のところ私は、弁護士が実際、どんなふうに働いているのかを知らない。自分の父親とはいえ、家にいない人から教わるのは物理的に不可能だし、お母さんも詳しいことはなにも聞かされてないとなれば、知りようがない。学校の公民の授業で取り扱われなければ、法律を扱い、裁判やらなにやらに携わる人だともわからなかったくらい。

 だから、お父さんの仕事の電話に聞き耳を立てるくらいには興味があった。事務所の人かな、それとも依頼人の人かな。残念ながら、通話相手の話し声は聞こえない。だけど、壁越しで細々としたお父さんの言葉のなかに、週刊誌、会見、秘書、というのが聞き取れた。それから、どこかで耳にしたことのある、何某社長、という名前。

 はて、つい最近どこかで……、と小首を傾げたところで、私はさっさとスマートフォンで検索をかけた。あっという間にヒットする。先日の緊急事態宣言と、感染拡大の報道にまぎれてはいるけれど、そうなる前にニュースやワイドショーでさんざん報じられた名前だった。

 曰く、国内飲料メーカー最大手の社長が、女性秘書に恫喝暴行したとのことを、秘書自身が大手出版社の週刊誌に告発したとの由。

 まさか、自分の父親が世間で騒がれる事件の関係者だなんて。それに、冷血漢もいいところのあのお父さんが、被害者女性に寄り添って弁護をするところなんか想像ができない。高まるだけ高まった好奇心から、私は、ぴったりと壁に耳を押し当てる。

 だけど、聞き耳をたてるうちにとんでもない勘違いをしていたことに気付いた。そして、じわじわと嫌悪感がこみ上げる。

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