2 幽霊


 扉の前で杏は立っている。左右に伸びる廊下には何人かの使用人が、ハタキで埃を落としたり、洗濯カゴを持って歩いていたりと、忙しない。


 扉の中は、濃いブルーの布張りのソファが二つと間に長テーブルが一つの客間である。壁に沿って飾られる陶器は、高祖父が生前集めてきた中国の高名な作家の名品だと言われている。


 杏は緊張していた。

 というのも、彼女は旦那様――ヨアンに仕えてから数ヶ月しか経っていない新人である。メイド長ならやもしれず、下っ端もいいところの杏が呼び出されるなど、良い報せとは微塵も思えなかったのだ。

 杏の頭の中には、何かやらかしてしまっただろうか、もしクビにでもされたら――と嫌な考えが渦巻いている。

 それでも、呼ばれたからには応えなくてはいけない。息を吐いて姿勢を正すと、その小さな手で扉を軽くノックした。


「旦那様、杏です」

「入れ」


 促されるまま部屋の中に入ると、透かし彫りがされた窓に寄りかかってヨアンが立っている。ソファには男性が一人座っていた。

 杏はこの人がメイド長とリリアンの言っていた客人か――と納得しながらお辞儀をする。その男性は、明るいグレーの大胆なチェック模様の、英国紳士としては珍しい色合いのスーツを着用していた。


「初めまして、ウェーズリー・ブルースだ。よろしく」


 杏はギョッとして目を見張った。

 ウェーズリー・ブルースと名乗ったその紳士はあろうことか一使用人である杏に握手を求めてきたのだ。驚いて、どうしたらいいのか、握手を返すべきか、杏は動けずにいると「そこまでにしてやれ、ウェーズリー」ヨアンの助け舟が入る。

 ブルースは肩をすくめてソファに座り直すと、ごめんね、と杏に視線を飛ばした。


「君もそこに座りなさい」


 ヨアンは明るい茶色の髪を撫でつけながらソファを指さした。

 杏はこれまたギョッとする。使用人が仕えている主を立たせて席になどつけない。


「そういうヨアンも困らせるなよ。使用人がお前を立たせて座れるかって」

「そうか? じゃあ、そのままでもいい」


 大股を広げてブルースは笑う。どうすることもできず立ち尽くしていた杏はほっと胸をなでおろす。他の使用人が口々に、旦那様は変人だ、と話していたことを思い出して、納得した。

 杏はブルースの向かいソファに近づき、足をそろえる。ヨアンもその様子を見てから、深く腰かけた。


 テーブルには他のメイドがいれたのだろう、紅茶が置いてある。赤茶の木目に白い陶器のコントラストが目に気持ち良い。

 ヨアンは紅茶を一口飲むとブルースに目配せをした。


「――それで、今日は何をしに来た」


 ブルースも、ヨアンと同じようにティーカップに口をつけ、それからたっぷり時間を置いて口を開いた。


「お前も聞いたことあるだろう、教会に出るユーレイの話」


 ブルースの言葉に杏はドキリとした。

 郊外にある、寂れた教会。そこでは少し前から幽霊が出ると使用人の間でも噂になっている。そういった話に疎い杏でも、うわさ話は耳に入ってくるので知っていた。

 幽霊? 馬鹿馬鹿しい、と最初は信じていなかった杏も毎日のように、やれ幽霊が出た、やれ隣の使用人も見たらしい――など話されてはうっすら信じてしまうのも仕方がない。

 だから、ブルースの口からその話が出たとき、思わず反応してしまったのだ。


「あの教会って寂れてるだろ。手入れが行き届いていないというか、妙に古っぽいというか。まあ管理してた司教サマが死んじまってから誰も近づかないから仕方ないんだけど」

「その司教様が出るとか言うんじゃないだろうな」

「いや、そうじゃなくて」


 ブルースは苦笑いをして話を続ける。


「今は誰も手をつけないような教会でも、墓はあるだろ。だから、定期的に誰かしらは行ってるみたいなんだよ。それで俺の友人もその一人なんだけど……そいつが見たって言うんだ。女の幽霊」


 杏は空になったブルースのティーカップに紅茶を注ぐ。ティーコゼーが被せられたポットはまだほんのりと暖かく、それが余計に背筋を震わせた。


「まさかお前まで見たなんて言わないだろうな」


 足を組みかえてヨアンは鼻で笑う。杏と違ってまったく信じていないようだった。


「それで、それを私たちに話してどうしろと言うんだ。まさかそんな世間話をするためだけに来たわけじゃないだろう」


 ヨアンの口ぶりから、杏が呼ばれたのは目の前の男が原因なのだと察する。


(今の話と私が呼ばれたこと、関係があるのだろうか)


 杏の疑問は次の瞬間、解決することとなる。


「そこの嬢ちゃんに幽霊退治を頼みたいんだ」

「はい?」


 この旦那様にしてこの友人ありか、と杏は足元がふらついた。

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