うどん

三矢

第1話

 運ばれてきたそのうどんは、武蔵野うどんと呼ぶらしい。


 茶色がかったコクのありそうなつゆに、薄く切られたシイタケと多めの白ごまが浮かんでいる。ざるに盛られた太めのうどんは、いかにもこしがありそうで、少し表面がざらざらとしている。つゆがよく絡みそうだ。

 つゆには本来、ネギも浮かんでいるはずなのだが、私が苦手なので抜いてもらった。オーダーした際、店主が嫌な顔を見せなかったのでほっとした。強いこだわりを持った頑固な店主の場合、露骨に態度に出ることがあるのだ。完成したものを崩されるのが嫌な気持ちは正直わかるので、いつも申し訳ない気持ちでオーダーしている。


 うどんはとてもおいしかった。


 しっかりとだしの効いたつゆに太いこしのある麺がよく絡んで、食べごたえも十分だ。うどんもつゆも丁寧に作られているのが伝わってくる。夢中になって食べたので、つゆを少しシャツにこぼしてしまった。ホワイト系のシャツなので目立つが、まあいい。

 最後の晩餐にするならこれだな、と思った。


「どこから来たの」

 半分ほど食べたところで店主が声をかけてきた。

 午後三時という中途半端な時間だったためか、他に客はおらず、その問いかけは間違いなく私にかけられたものであった。

「都内ですよ」

「ほう。小旅行ですか」

「そんなところです。ところでうどん、とてもおいしいです」

「そうでしょう」

 店主は60代だろうか。皺の目立つ温和な笑顔が印象的だ。

「長いんですか?」

「もう、300年くらいかなあ」

 このお店の外観はとても古い。木造の平屋建てで、森の中に違和感なくひっそりと佇んでいるので最初はうどん屋だとはわからなかった。のぼりも出ておらず、看板もない。一見昔ながらの民家のようだ。私が通りかかった際、たまたま店主が縁台に座って休んでいて、いらっしゃい、と声をかけてくれたのでうどん屋だと知ることができたのだ。

「300年。それはすごいですね」

「まあ、一度潰してるんだけどねえ」

「そうなんですか。こんなにおいしいのに」

「100年くらい前だったかなあ。小麦粉が暴騰してね。全然手に入んなくなって、やめちゃったの」

「100年前、ですか」

 店主がさも自分が経験したことのように話すのでおかしかった。

「300年あればいろいろありますね」

「いろいろあったよう」

 ふふ、と息を漏らすように笑ってしまった。


「ごちそうさまでした」

 つゆを飲み干し、お皿をきれいに空っぽにして言った。本当においしいうどんだった。

 代金の350円を財布から取り出す。

「御代はいいよ」

 店主が顔の前で右手を振る。

「え、でも」

「いいのいいの」

 また振る。

「すごくおいしかったですし、払いますよ」

 そもそもが安いのだ。

「御代の代わりはもうもらったからね」

 もちろん私は何も渡していない。

 結局、御代を支払うことなくお店を出た。


 身体を伸ばして深呼吸した。

 武蔵野うどんを出すこのお店は、濃い緑に囲まれている。武蔵野という地名は非常に曖昧なもので、範囲はとても広い。その中でもここは原風景のようだ。東京にこんなところがあったのかと、タイムスリップしたかのような不思議な気持ちになる。


 来た道を戻る。

 道と言っても整備はされていない。人が通るうちに自然とできた登山道とも呼べないようなしろものだ。少し歩くだけで四方の景色の区別がつかなくなる。

 進む方向はこっちでよかったっけ。そもそも私は今どこに向かっているのだろうか。ぼんやりと考えながら歩く。景色が変わらないというのは、前が見えないのと同じことだ。

 土を踏む音がはっきりと聞こえる。ここは静かだ。人はおろか、動物の気配もない。

 このまま迷ってしまおうか。随意的に迷うのは迷ったと言えるのだろうか。

 この森から出られないのは、きっと不幸なことではない。


 ちょうど良い木を見つけたので、腰をかけてリュックサックをおろした。幹が太くてどっしりとしている。見渡すとこんな木ばかりだ。

 リュックサックのチャックを開ける。中には強めのお酒と大量の睡眠薬が入っている。


 死にたいな、と漠然と思っていて、しかしなかなかそれを実行に移す度胸はなく、いつか勢いに任せてできたらいいなと常に準備していた。今週はなにか予感のようなものがあって、いけるのではないかと今日は死に場所を探して彷徨っていたのだ。


 お酒を取り出した。開封して一口飲む。喉が熱い。弱いのですぐに酔える。

 リュックサックのサブポケットに手を入れた。何も入っていなかった。あれ、とひとりごちて覗き込む。本当に何もない。睡眠薬は確かにそこに入れた。何度も確認をしたのだ。


 リュックサックの中をくまなく探したが、結局見つけることはできなかった。

 落としたのか? 自問自答する。いや、そもそも取り出していないし、ポケットのチャックも閉まっていた。うどん屋でも財布を取り出すときにリュックを漁っただけだ。そのときに落とした? サブポケットは開けていないが。他に可能性はあるだろうか。

 お酒をしまって起き上がる。リュックサックを背負ってまた道を戻る。うどん屋に行ってみることにした。


 この辺りのはずだが…。

 道を辿って10分ほど歩いた。もううどん屋に着いてもおかしくないのだが、いっこうにそれらしい場所に出ない。同じ景色が延々と続く。

 迷ったか。

 しかし整備されていないとはいえ、一本道でついさっき歩いた道を間違えるだろうか。


 さらに5分ほど歩いた。やはりうどん屋は見つからない。距離的には既に通り過ぎていないとおかしいのだが。道を誤ったとも思えない。

 このまま進んでも無意味だろう。引き返すことにした。注意深く辺りを見渡しながら戻ったが、やはり見当たらない。


 先ほどまで腰かけていた大木に着いた。結局うどん屋を見つけることはできなかった。


 不思議な話だ。


 今思えば、そもそもあのうどん屋自体がどこか浮世離れしていた。店主は風変りで、話も突飛だった。


 幻か…。


 睡眠薬はなくなったのではなく、どこかのタイミングで飲んでいたのか。そして記憶が曖昧になり、飲んだことも忘れ、幻を見た…。


 いや、しかしあのうどんの味はしっかりとこの舌が覚えている。

 満腹感もある。


 ふと思いだし、シャツを見た。

 シミがあった。

 あのうどん屋も、やはり確かにあったのだ。


 今日はひとまず帰ることにした。

 もうすることはない。


 また来よう。

 そう思った。

 そして次はちゃんと御代を払おう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うどん 三矢 @sanfpurple

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ