100、新しい約束


「お腹がいっぱいになりました」


 二葉先輩はクッションに寄りかかりながら、幸せそうに紅茶を飲み干した。


「さて」


 おもむろに起き上がると、彼女は大きく伸びをして言った。


「寝ますか」


「ちょ、ちょっと待ってください」


「ん?」


「歯磨き、まだです」


「そうだった。私としたことが」


 二人で並んで、洗面台で歯を磨く。二葉先輩はボソリと言った。


「ナルくん」


「何でしょう」


「私が現実逃避していると思っているね」


 うがいをして口元をタオルでふくと、先輩は言った。


「思っているでしょ」


「……そうですね」


「当たり。私は現実逃避している」


「さすがに分かりました」


 二葉先輩は、ふぅと息を吐いて壁にもたれかかった。


「ちょっとショックなのと、ショックを受けていないのがあるの」


「半々ってことですか……?」


「そうなの」


 彼女は小さくうなずいた。


「まずショックの部分。この後、どうなっちゃうんだろうってこと。もし完全に消えたら、私はそのαアルファ次元って言う場所に戻るのかな?」


「……そう、なるんですかね」


「ナルくんとのことは覚えてるのかな」


 彼女はスッと視線を伏せた。


「もう会えなくなっちゃうってことだよね……多分。だって、この世界の私は死んでいるんだから」


「分からないです。正直、分からないことが多すぎて」


「私も。それが怖い」


 前髪で隠れて、彼女の表情は分からなかった。


 落ち込んでいると思った。

 けれど顔をあげた時、二葉先輩は意外にも、悲しそうな顔はしていなかった。


「怖くないって言うのはね」


 スッと俺の方に向けて、両腕を差し出した。


「ハグして」


 微笑みながら、飛び込んできた。


 身体を抱き寄せる。お風呂上がりの、石けんの香り。


 しばらく抱き合った後で、彼女は俺の胸元で小さな声でささやいた。


「なぜかというと、ひとりぼっちじゃないから」


 彼女の身体は、かすかに熱を持っていた。


「ひとりぼっちじゃないと、何でもできるような気がする」


「本当ですか。怖くないですか」


「怖くないよ。だって、ナルくんが一緒にいてくれるんだから」


「……一緒にいますよ」


 そんなに頼りになれているだろうか、と思う。


 俺にできることなんて、ほとんど無いのに。それで良いと言ってくれる彼女に対して、もっと何かできないのだろうか。


 言える言葉なんて、ほとんどなかった。


「あまり寂しくならないように、ずっと一緒にいますから」


「うん」


「どうにか二葉先輩がずっとこっちにいられないか、考えてみます。それと……普段通りに楽しく過ごすことも忘れないように」


「すてき」


 彼女はジッと俺の目を見返した。


「新しい約束だね」


 嬉しそうに言った二葉先輩は、背伸びをして、唇を寄せてきた。


 その身体をギュッと抱き寄せる。


 彼女のキスは、ミントの歯磨き粉の味がした。触れるごとに、段々と甘くなっていく。


「……うん」


 彼女がコクリとのどを鳴らした。


 強く抱きしめてくるその手は、切実に、まるで何かを確かめるように、何度も俺の背中をなでていた。


「……ありがと」


「お礼なんか良いです」


 彼女は黙って、うなずいた。


 その夜も、先輩は何度か消失を繰り返した。でも朝になった時、穏やかな寝顔の彼女がちゃんといて、俺はどうしようもなく安堵あんどした。

 

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