84、お腹が一杯になってしまった


「うっうっうっ」


 河原に座り込んで、洗ったばかりのコタツ布団を抱えながら、二葉先輩はボロ泣きしている。


「どうして焼き芋食べちゃったんだろう」


 いわく衝動で食べてしまったらしい。一口食べたら、そのままパクパクと、この有様だ。


「お腹がいっぱいになってしまった……」


 取り返しのつかないことをしてしまった。 


 悲しむ二葉先輩を見下ろしながら、剥不はがれずさんが呆れた顔をしていた。


「そんなに楽しみにしていたなら、そうと言えば、良い。私だって無理にとは言っていない」


「そ、そうだよね」


「ちゃんと断られたら、引き下がる。私は腹をすかせた猛獣ではない」


「だよね。だよね。ごめんね」


 膝を抱えた先輩は、シクシクと泣いている。


 あんなにデカい芋を夕食前に食べてしまったら、しばらく何も入らないだろう。せっかくのすき焼きも、美味しさ半減だ。


「……先輩、すき焼きは明日にしましょう。今日は適当に冷食で済ませましょう」


「そ、そうだね。そうしようか」


「一日置くと肉の鮮度が、落ちる」


 剥不さんが口を挟む。


「まずくなる……?」


「なる」


 それを聞いて、二葉先輩は目をうるませた。


「ううぅ」


「今、そういうこと言わないでください。一日置いたくらいじゃ、そこまで鮮度は落ちませんよ」


「私は肉にはうるさいんだ」


「せっかく美味しいお肉買ったのにー」


 二葉先輩は、再び泣き始めてしまった。


 よほど悲しかったのか、地面にうずくまった先輩は自分の口に指を突っ込んで、えづき始めた。


「うえっうえっ」


「ちょっと何やっているんですか」


「焼き芋吐き出そうかなと……」


「ば、バカなことはやめてください!」


 混乱した二葉先輩を止める。もうめちゃくちゃだ。


 策士策さくしさくおぼれる。


 かと言って、もうどうすることもできない。一度膨れた腹は、空くまでに時間がかかってしまう。今から頑張っても、深夜になる。


 明日は学校があるし、そんな遅くにご飯を食べるわけにはいかない。


 途方に暮れる俺たちを見て、剥不さんが「フ」と息をはいた。


「仕方がない」


 剥不さんは自分のポケットに、手を突っ込んで、ジャラジャラと大量の錠剤じょうざいを取り出した。


「お腹が空く薬がある」


 赤いカプセルを数粒、剥不さんは二葉先輩に渡した。


 先輩は泣きはらした目で、カプセルを受け取った。


「……これ」


「一粒で効果てきめん。数秒後にはお腹ペコペコ」


「そっか、これを飲めば……」


「ま、待ってください。先輩、怪しい薬は飲んじゃダメだって、習いませんでしたか」


「でも、お腹すくって」


「ダメです。ゼッタイ」


「依存性はない。満腹中枢ちゅうすうをちょっといじるだけ」


 剥不さんがえっへんと胸を張って言った。なんかすごい物騒なことを言っている気がする。


「せ、先輩落ち着いてください」


「……すき焼き」


 そう呟いた先輩は薬を飲んでしまった。


 コクンとカプセルを飲み込むと、彼女は「べ」と舌を出した。


「にがい」


「早く吐き出さないと」


「うーん……無理。なんか眠くなってきたかも」


 うとうとした先輩は、敷き布団を抱えたまま横になってしまった。そのまま目を閉じようとしている。


「こんなところで寝てはいけません……!」


「むにゃむにゃ」


「あの、本当にこの薬大丈夫なんですか」


「問題なし。鷺ノ宮助手で臨床試験は済ませている。間も無く効果が現れる」


「……うーん」


 気だるそうに目を開けた二葉先輩は、俺の顔をジッと見ていた。その瞳はどうにも焦点しょうてんが合っていない。


「先輩……大丈夫ですか?」


「……おなかへった」


「え」 


「ガブ」


 ……え。


 俺、今噛まれ……?


「……先輩?」


「おなかへった」


「せ、先輩、それすき焼きじゃなくて……俺のくび……」


「ガブ」


 あっ。

 なんか、舌でペロペロされてる。


「おなかへった」


「せ、先輩」


「ガブ」


 あっ。


 ダメだ、これ。


 地味に気持ち良い。


 頭がすごく熱くなってくる。


「は、剥不さん! た、助けてください!」


「楽しそう」


「笑ってる場合じゃないです。どうなってるんですか、これ!」


「満腹中枢をいじった。三船二葉はとてもお腹が空いている」


「そうじゃない。理性までなくなってる……!」


「おなかへった。ガブ」


「あっ」


 ギュウッと抱きしめられながら、首筋にかじりつかれている。動けないし、俺の下半身がとんでもないことになっている。


「ガブ」


「ふあぁ……!」


 変な声が出た。

 先輩が正気に返る様子はない。離してくれそうもない。色々押し当てられて非常にまずい。


「は、剥不さん!」


「なに」


「た、助けてください。お願いですから」


「発情期め」


 しぶしぶと言った感じで、剥不さんはふところからビンタくんを取り出した。ぴょんぴょんとつり竿を操ると、二葉先輩は猫のようにそれに飛びついた。


「……はぁはぁ。死ぬかと思った」


「大げさ」


「二葉先輩、どうしましょう」


 二葉先輩は、コタツ布団を抱きしめながら、釣り竿にかじりついている。なんだこれ。そんじょそこらのヤバい薬よりヤバい薬だ。


「しばらくすれば、落ち着く」


「じゃなかったら、許しませんよ」


 噛まれた首筋をさする。


 鏡を見ないと分からないけれど、多分赤くなっている。


 早く元に戻らないかと視線を落とすと、すでにそこに彼女はいなかった。


 見渡しても、どこにもいない。


「……ちょっと」


 コタツ布団ごと、二葉先輩が消えている。

 隣で腕を組んだ剥不さんが「お」と声をあげた。


「三船二葉、消失」


 これはまずいことになった。

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