69、ちゃんと抱きしめてね
数分コテージから離れただけで、森は暗くなっていった。木が四方でザワザワと揺れる。それが異様に不気味だった。
古い木が倒れた後だろうか、俺の腰のあたりほどの高さの、切り株があった。
二葉先輩はその上にしゃがみ込んでいた。
枯れ葉のクシャリと言う音に気がついたのか、彼女は顔も上げずに言った。
「バッタ、いない」
「危ないですよ。コテージに帰りましょう」
彼女は何も言わなかった。
切り株の上で、ゆっくりと立ち上がった。
「二葉先輩」
彼女は、遠く木々の先を指差した。
「明かりがあるよ」
ずうっと森の奥に目を向けている。
「見て、あっちの方に小さな池があるの」
木々が開けたところに、わずかな明かりが見える。水の音は聞こえないけれど、月を浮かべた水面の揺らぎが視界に入った。
「あっちならバッタいるかな」
ぴょんと切り株から飛び降りると、二葉先輩はてくてくと歩き始めた。俺はその後ろを、歩いていく。
暗闇の中で、彼女の姿を見失わないようについていく。
「バッタなんていませんよ」
彼女の背中に声を掛ける。
枯れ葉を踏む音だけが、返ってくる。
「どうして何も言わないんですか」
一定の距離を保って、彼女の後を追いかける。
見失わないけれど、触れられない。中途半端な距離。二葉先輩に追いつくことができない。
「止まってください。どうして……」
池のほとりについていた。
水面は、月と小さな街灯を反射させている。暗い夜空が水に張り付いている。
彼女が振り向く。
街灯の明かりが、彼女の顔を照らした。
「だって」
口が開いた。
二葉先輩は泣いていた。
「だって……」
ポロポロと涙を落としながら、言葉を詰まらせた。
「だって、ずっとナルくんに心配……させて……」
腹の奥から、何か熱いものがせり上がってくる。
「ごめんね……この前も。だから……あんなにびっくりして……」
彼女は何度もしゃくりあげて、「ごめんね」と繰り返した。
下を向く。
波一つない水面が、眼に映る。
そこに自分の顔が幽霊のように浮かんでいた。映った自分は、本当にひどい顔をしていた。
目を背けたくなるほどの、間抜けヅラ。
「……あぁ」
何やっているんだか。
せり上がっていた熱い何かが、胸の奥に引っ込んでいく。
「ごめんね……ごめんね」
どうして二葉先輩が謝っているんだろう。
謝らせているのは俺だ。バッタを捕まえに行くなんて、つまらない嘘をつかせたのは、俺だ。
今、この瞬間、彼女を苦しめているのは、俺だ。
「二葉先輩」
バカだな、本当に。
自分のしでかしてしまったことに、ようやく気がつく。
ここで俺がしっかりしなくちゃいけないのに。余計に不安にさせて、どうするんだろう。
隠し事はなしだって、ちゃんと約束したはずなのに。
「先輩」
「大丈夫。私は……大丈夫だから……」
「違います、俺……」
自分に腹が立った。
無性に、胸をかきむしりたくなるほど、情けなかった。
何しているんだろう。秘密にして、心配させて、不安にさせて。
水面に映った頼りない自分が、憎らしい。
「……恋人失格だ」
地面を蹴ったのは、そんな怒りに似た衝動だった。
先輩の驚いた声が、遠くなっていく。
水面が迫ってくる。
心臓が凍るほど冷たい。頭の奥のモヤモヤが、冷えて固まって落ちていく。
ザブンと耳の奥で、水の音がする。
池は思ったより、深かった。
「ぶほっ」
口の中の水を吐き出す。
臭くて、苦くて、冷たい。
胸のあたりまで水につかった俺を、二葉先輩は不思議そうな顔でのぞき込んでいた。
「……何やってるの?」
「……頭、冷やそうと思って」
「顔だけつければ良かったのに」
「これくらいが丁度良いんですよ。俺バカだから」
先輩はクスクスと笑った。
「変なの」
目のふちに溜まった涙を
「でも、とっても面白そう」
「そうですか」
「うん。それにさ……」
二葉先輩がジッと俺のことを見る。
静かになった池にまた、月が映る。
「恋人失格なんかじゃないよ。とってもかっこいいよ」
彼女はそう言うと、一歩近づいてきた。
「ナルくん」
「先輩……?」
「ちゃんと抱きしめてね。離さないでね」
途端、彼女は地面を
その身体は、ゆるやかな放物線を描いた。
驚く声も出ない。
水面に張り付いた夜空が、再びザブンと、大きな波紋を立てた。
同時に彼女の身体が、勢い良く胸に飛び込んできた。
慌てて抱きとめて、腕に力をこめる。
「うひゃー! つめたーい!」
ちゃんと離さないように、しっかりと。
楽しそうにはしゃぐ彼女に、声をかける。
「二葉先輩」
「ブルブル……ん?」
「……ごめんなさい。もう、こんな風に不安にさせて、泣かせたりなんかしませんから」
そう言うと、背中の方にゆっくり手が伸びてきた。ギュッと力強く、二葉先輩が力を入れるのが分かった。
照れ臭そうに俺を見上げた彼女は、
「やくそくだよ」
と唇を合わせてきた。
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